小学館eBooks
ミモザの告白
八目 迷
イラスト くっか
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ミモザの告白
八目 迷
イラスト くっか
「大事な話があります」
担任の
伊予先生はさっぱりした性格の若い女の先生だ。いつもニコニコしていて、相手が生徒でも友達のように接するので、みんなに好かれている。
そんな伊予先生が、朝のHRでいきなり「大事な話があります」なんて真剣な顔で言うものだから、みんな身構えた。
大事な話。なんだろう。頭にいろんな予想が浮かぶ。
「結婚します」「離任が決まりました」「男子トイレで吸い殻が見つかりました」
どれも違う気がした。
不意に、ひょっとするとあのことかもしれない、と一つの可能性が頭をよぎった。そうであってほしいような、でも完全に予想が外れてほしいような、複雑な気持ちになる。
「入ってきて」
伊予先生が扉のほうを見て言った。すると扉が開いて、一人の生徒が教室に入ってきた。
え、と誰かが声を上げる。みんなが
俺は自分の目を疑った。けど同時に、
──なかったことには、しないんだな。
*
一〇日前に
春をすっかり通り過ぎ、夏の気配を近くに感じる、そんな六月の中旬。
朝、いつもの時間に家を出て、俺は自転車に
住宅街を抜け、団地の前を通り過ぎると、眼前に田園が広がる。柔らかな風が稲の葉を揺らし、草と泥の香りを運んでいた。田んぼのあいだの一本道を、俺は快調に進んでいく。
いずれこの町は老人ばかりになるだろうな、などと
「うわっ」
太ももから
思わずため息を
振り返ると、俺と同じ制服を着た男が自転車に跨ってこちらを見ていた。癖っ毛で陰気そうな顔をしたこの男は、俺のクラスメイトである
「
「なんだよ」
「足、めっちゃ濡れてる」
「知ってるよ。ていうか見てただろ」
ズボンが濡れたまま学校には入りたくない。乾くまで時間を稼ごうと、自転車を押して学校へ向かうことにする。すると蓮見も同じようにして、俺の隣に並んできた。
「朝からツイてないな。ウケる」
「ウケねえよ。最悪だ。あの道路が陥没したとこ、早く直してほしい」
「もう直んないでしょ。俺が小学生のときからああだし、ずっとあのままだ」
「はぁ……。ほんと、クソ田舎って感じがする」
つい口が悪くなってしまう。だがこの町のことは昔から好きじゃなかった。
田舎は田舎でも、
だから高校を卒業したらこんな町、すぐ出ていってやる。
地元への不満を募らせながら自転車を押しているうちに、田んぼ道を抜けた。前方に灰色の校舎が見える。
俺たちが通う椿岡高校だ。
校舎内の空気はじめっとしている。おまけに人が多くて騒がしい。すでにほとんどの生徒が夏服に衣替えを済ませていた。
HRの時間が迫っているせいか、みんな慌ただしそうにしている。俺も急がなければ。
2Aの下駄箱に向かおうとしたところで、明るい髪色の男子を見つけた。
げ、と声が出そうになる。その生徒に気づかれないよう、俺は静かに下駄箱から自分の上履きを取り出す。が、誤って上履きを両方とも落とし、ぱたぱたん、と音を立ててしまった。
彼がこちらに気づき、目が合う。
「
鼓膜に残るハスキーな声。
汐は日本人とロシア人のハーフで、イケメンよりも美少年って感じの顔つきをしている。こんな田舎町に住んでいなければ、モデルか俳優になっていてもおかしくないだろう。そのうえ陸上でインターハイに出場するほど運動神経抜群。おまけに成績優秀で誰にでも親切という、非の打ち所がない高校生だった。
そんな汐のことが、俺は少し苦手だ。
「あ、ああ。おはよう」
「あれ? ズボンちょっと濡れてる。もしかして転んだ?」
「や、学校来るとき軽トラの水はねくらっちゃって……」
「へえ、災難だったね。ジャージに着替えてきたら? そのままじゃ風邪引くよ」
「別にいいよ、このままで。すぐ乾く」
「そう? ならいいけど」
ふと
「汐ー、何してんの? 早くしないと遅刻するよー」
「ああ、今行く!」
汐が返事をすると、俺に「それじゃ」と言って西園のもとへ向かった。その先で汐はさらに数人のクラスメイトと合流する。どうやら汐を待っていたのは西園だけではなかったらしい。
楽しそうに談笑しながら歩く汐の背中を、俺は黙って見つめていた。
「
突然名前を呼ばれて少し驚く。上履きに履き替えた
「たしか、
「まぁ、うん。そうだけど。それが?」
「仲いいなぁ、って思って。紙木と槻ノ木ってジャンル違うじゃん」
「なんだよジャンルって。てかそんな仲よくないだろ。むしろ俺は……ちょっと苦手だ」
「苦手」
「汐が悪いわけじゃないんだけど、なんつうかさ。汐と話してると、自分がしょぼく感じるっていうか……」
「うわ、卑屈だな。そんなんだから友達少ないんじゃないの」
「うるさいな。お前だってそうだろ」
「いや紙木よりかは多いと思うけど」
ぐ。そうだった。帰宅部の俺と違って蓮見は卓球部に所属している。だからそこそこ友達が多い。他クラスの生徒とだべっているところを、よく見かける。
俺が何も言い返せずにいると、蓮見は気を使ってか「ま、紙木の言いたいことも分かるけど」と付け足した。
「たしかに卑屈になっちゃうかもな。槻ノ木、俺らとは別世界の人って感じがするし」
「だろ? お前も汐と幼馴染になったらよく分かるよ」
上履きに履き替え、俺たちは2Aの教室に向かった。
「はーい、みんな席に着いてねー」
HRが始まる。教壇に立つ
「じゃあ、まずはお知らせから。最近お腹を壊して保健室に行く生徒が増えてるみたいです。この時期は湿気が多くて食べ物が腐りやすいから、お弁当の子は注意してね。ちなみに先生は購買でお昼ごはんを買ってます。あ、もちろんお弁当を作るのが面倒とかじゃなくて──」
汐はすっと背筋を伸ばして、先生の話を聞いていた。俺を含む大半のクラスメイトが気だるそうにしているなかで、汐の
これでも一応、小学生まで俺と汐は仲がよかった。親友、と言ってもいいくらいに。
毎日のように一緒に遊んでいたし、互いの家に泊まることもあった。幼い俺は、この関係は大人になっても続くのだと、当然のように考えていた。
だがそうはならなかった。
中学に入ってから、俺は汐を避けるようになった。
顔がよくてスポーツ万能、かつ人望に厚い汐。片や地味な容姿でこれといった特技はなく、人見知りな俺。年を重ねるにつれ、能力の差がはっきりし始めた。次第に俺は、汐のそばにいるだけで、自分のことを身のほど知らずなヤツだと思うようになってきた。
汐を避け始めた理由は、それだけじゃない。
決定的なのは、中学二年のあの出来事だ。
当時、俺には仲のいい女の子がいた。彼女はしょっちゅう俺に話しかけてくれて、放課後に二人で帰ることもあった。俺は彼女のことを好きになり、思い切って告白した。そしたら。
「ごめんなさい……私、実はその、汐くんのことが」
そこですべてを理解した。「汐くんのことが」に続く言葉も、どうして俺に近づいたのかも。
恋は盲目、なんて言葉は今日び薄っぺらな
俺は帰宅してからひたすら自己嫌悪に明け暮れた。人に告白したのが生まれて初めてだった分、ショックも大きかった。
その日から、彼女とは言うまでもなく──汐とも、顔を合わすのが
汐は何も悪くない。それは分かっている。彼女も、打算はあったかもしれないが悪意はなかっただろう。悪いのは、勝手に裏切られた気分になっている俺だ。だから余計に辛かった。誰のせいでもないから自分を責めるしかなくて、結局また自己嫌悪に陥る。
遊びやグループ作りで汐に誘われても、俺は断るようになった。そうするうちに、汐は他の声がでかい連中と過ごす時間が増えていき、俺は教室の隅で静かに本を読むような生徒になっていた。
地元に学校数が少ないせいか、俺と汐は志望校が重なり、こうして同じ高校に進んだ。けど状況は中学のときと変わらない。
これでよかったのだ。少なくとも、身の丈には合っている。
余談だが、俺を振った女の子は、数日後、汐に告白して振られたらしい。気の毒だとは思ったが、それもすぐどうでもよくなった。彼女とは振られてからそれきりで、どこの高校に進んだのかも知らない。
「──だから鶏肉で当たると地獄……ってあれ? 今気づいたんだけど、
汐から視線を外し、
遅刻かな、と伊予先生が
「は~間に合った~!」
一人の女子が教室に飛び込んできた。緩くパーマのかかった髪がふわりと揺れる。ついさっき名前を呼ばれた星原夏希だ。どうやら走ってきたらしく、息切れしていた。
星原は息を整えてから、伊予先生のほうを向いて、にへら、とはにかんだ。
「伊予ちゃん先生、おはようございます!」
「はい、おはよう。朝からお疲れ。けど遅刻寸前だよ、寝坊でもしたの?」
「いやあ、電車で寝てたら降りる駅過ぎちゃってて……焦りました」
「焦りました、じゃないよ。ったく、次から気をつけなー?」
「は~い」
くすくすと笑い声が起こるなか、
彼女も
星原が席に着くと、
*
一時間目の授業が終わり、休み時間が訪れる。
二時間目は化学だ。授業は理科室で行われる。周りのクラスメイトは、筆記用具と教科書をまとめて次々と席を立つ。俺も移動の準備を始めていたら、教室の真ん中で談笑する五、六人の男女グループが目に入った。
「げ、最悪。教科書忘れた」
そう声を上げたのは
「同じ班だし、私の見せたげるよ」
「ほんと? ありがと
星原は照れながら移動して自分の机を
星原は顔を上げて、困ったように「えへへ」と笑った。
「私も忘れたっぽい」
「バカ」
すぱっと
「二人とも忘れるとか抜けすぎでしょ。笑うわ」
と近くにいた男子が茶々を入れた。すると西園はキッと目を細めて、
「は? 全然面白くないんだけど」
と言い放った。鋭い
西園の
「ぼくのを見ればいいよ。席ちょっとずらさなきゃだけど、問題ないでしょ」
「さすが汐! 頼りになる」
「ありがとー、汐くん!」
「はいはい、もう忘れないようにしなよ?」
笑顔でたしなめる汐に、女子二人は「はーい」と声を合わせる。
そのやり取りを見て、俺は胸の中にざらりとしたものを感じた。どうも居心地が悪くて席を立つ。筆箱と教科書を
──俺も、あんなふうになれたらな。
ポツリと
女子に囲まれる汐と、一人寂しく理科室に向かう俺。
ネガティブな考えを振り払う。そのとき、突然そばの教室から生徒が飛びだしてきて、肩がぶつかった。
「わ」
ぶつかった衝撃で脇に挟んでいた筆箱が滑り落ちる。缶ケースの筆箱はガシャンと音を立てて、中身を廊下にぶちまけた。
「あ、わり」
ぶつかってきた生徒は、それだけ言って走り去ってしまった。
俺はしゃがみ込んで、散らばったペンやら定規やらを拾い集める。
「謝るなら拾うの手伝えよ……」
小声で愚痴る。できることなら直接言ってやりたかったが、もう遅い。
休み時間のそこそこ人が多い廊下で、一人
ああクソ。最悪だ。
目の前に落ちていた消しゴムを拾おうと手を伸ばす。すると、誰かがそれをひょいと拾い上げた。見上げると、そこに立っていたのは汐だった。右手に筆箱と化学の教科書を抱えている。
「手伝うよ」
「あ、ああ。サンキュ」
汐は俺の正面に
ちら、と汐の顔を
「
会話がないのが落ち着かなくて、俺は
「ん? 何が?」
「さっき、教科書を貸すとか言ってたから」
「ああ。アリサが日直で
「あ、そういうこと……」
「はいこれ」
「ありがとう。助かった」
礼を言って汐に背を向けようとすると、「まぁ待ちなよ」と呼び止められた。
「何も一人で行かなくても……一緒に行こう?」
ああ。それはそうか。
正直、汐と並んで歩くのは気が引けるが、手伝ってもらった手前、断るのはさすがに悪い。
「そうだな、行くか」
汐は大きく
それから二人で理科室へ向かう。俺はどうにも落ち着かなかったが、会話に困ることはなかった。というのも、汐が一方的に
「それでさ、
階段を上ったところで汐がそう言った。
操……汐の妹だ。たしか今年で中三だったか。色白で線の細い、礼儀正しい女の子だった。幼い
「早く
しまった。上の空だった。
「え、ああ。すまん。そう、操ちゃんね。なんか、あの子が反抗期って想像できないな」
「そう? まぁ人前だと大人しいからなぁ。家じゃ結構ズケズケ言ってくるんだよ」
「へえ、知らなかった」
「今度、ウチに来て会ってみる?」
え! と声が出て歩きながら汐のほうを向く。冗談で言ってるわけではなさそうだった。
「いやいや、いいよ。今年、操ちゃん受験だろ? 邪魔しちゃ悪いって」
「別に、気にしないと思うけど」
「そ、そう……?」
ううむ、距離感が分からん。それとも汐くらい友達が多いと、誰でも簡単に家に招いたりするもんなんだろうか。
「ま、
「ふーん……受かるといいな」
ああ、と
そろそろ理科室に着く。教室から三分もかからない道のりが、妙に長く感じられた。
ふと前方の理科室から出てくるうちのクラスメイトが目に入った。クラスではそこそこイケてる部類に入る男子が二人。そのうちの一人が、こちらに気づく。
「お、汐じゃん。ジュース買いに行こうぜ」
二人がこちらに向かってくる。
汐は足を止めて彼らを待つ。俺も少し遅れて立ち止まり、汐のほうを向いた。
「じゃあ、俺、先に行くから」
そう言うと、汐は不満そうに
「
「いや、いいよ。俺があのなかに交ざったら浮いちゃうだろ」
「でも」
「ほんと、いいからさ」
それじゃ、と一方的に会話を終わらせて、俺は足早に歩みを進めた。
途中、汐に声をかけた男子二人とすれ違ったが、彼らは俺に見向きもしなかった。汐しか眼中にないようだ。そのことに俺はちょっと劣等感を覚えてしまう。が、別に構わない。汐も俺みたいな
*
今日一日の授業がすべて終わった。
時計の針は四時を指している。数学の先生が退室するなり、教室には「部活だるい」だの「カラオケ行かない?」だの、そんな声が飛び交った。
俺は手早く身支度を済ませる。帰宅部なのでこれから用事もない。あとは帰るだけだ。
席を立ち、教室を出る。廊下を歩いていると、ユニフォームやジャージに身を包んだ生徒の何人かとすれ違った。
といっても、俺は部活に入る気はない。中学の
階段を降りて昇降口に着くと、辺りは同じ帰宅部であろう生徒たちで
校舎に沿って歩き、駐輪場に着く。自分の自転車に
しばらく走ると、十字路で赤信号に捕まった。
ぼんやりと、よそ見をする。田んぼの上を飛び交う気の早いコウモリを眺めていたら、突然ハッとあることを思い出した。
自分の右ポケットに触る。次に左ポケット。どちらにもない。
携帯、学校に忘れた。机の中に入れてそのままだった。
「うわ~、めんどくさ……」
自転車に跨ったままうなだれる。もう学校を出てからだいぶ
今日は本当にツイてない。いや、これは完全に自分のミスか。
仕方ない、戻ろう。明日は土曜日で学校は休みだし。週明けまで携帯が使えないのは、さすがに不便だ。俺は泣く泣く学校に引き返した。
時刻は五時ちょっと前。帰宅部の人間はとっくに下校している時間だ。廊下は静かで、サッカー部のかけ声や剣道部の叫声が、厚い膜を通したみたいにくぐもって聞こえた。
階段を上がり、少し進んで2Aの教室に着く。半開きのドアから日光が差し込み、廊下に四角い模様を作っていた。
教室に入る。強烈な日差しに目を細めつつ、自分の席に向かう。すると無人だと思っていた教室に、人がいることに気がついた。窓際の机に腰掛ける、一人の女の子。
窓側に
普段の明るい彼女からは想像できない
俺の気配に気づいたのか、不意に、星原がこちらを向いた。
「どひゃあ!?」
星原はビクンと肩を
「す、すまん! ちょっと声かけるタイミング失ってた。驚かせて悪い」
慌てて謝罪すると、星原は胸を
「はー、びっくりしたぁ……完全に誰もいないと思ってた。てか、すごい声出ちゃったね」
星原は恥ずかしそうに「あはは」と笑う。怒ってはいないようで安心した。
「
俺はまたちょっと驚く。
「携帯、忘れちゃってさ。取りに来たんだ」
「あ~、なるほど。たしかに、ないと困るもんね」
俺は
最後列の真ん中。ここが自分の席だ。机の中に手を突っ込むと、指先が硬いものに触れた。これは……読みさしの文庫本だ。目当てのものではないが、そろそろ読み終わるし、持って帰るか。
文庫本を机の上に置くと、星原がこちらに寄ってきた。
「それ、なんて本?」
本に興味あるのか、と意外に思いながら、俺はブックカバーを外して表紙を見せた。
「これ、結構前から話題になってるやつで──」
「月と人シリーズ!」
なんと。三度目の驚きだ。知っていたのか。
月と人シリーズは人気のファンタジー小説だ。俺が今読んでいるものは第三巻にあたる。異世界の話で、敵国同士の男の子と女の子が無人島に漂流し、最初はいがみ合っていた二人が次第に仲を深めていく……という物語だ。重厚な世界観でありながら読みやすい文章で、俺は新刊が出るたび買っていた。
「これ、私も読んでるんだ。面白いよね~」
「ああ。星原、小説とか読むんだな」
「あ、今バカにされた気がする」
むっと顔をしかめて星原が詰め寄る。やばい、失礼なことを言ってしまった! と焦りつつも、息がかかりそうなくらいの至近距離にドギマギした。
「わ、悪かったよ。でもバカにしてるんじゃなくて、意外だと思っただけで……あ」
これ、フォローになってないな。
案の定、星原は上目遣いで
「……ま、そのとおりなんだけどさ」
と言って、すっと顔を離した。
「本とか読まなそうなタイプに見えるよね。実際、漫画以外ほとんど読んでないし。……中学のとき、読書感想文の課題図書になったのが月と人シリーズでさ。面倒くさいな、って思いながら買って読んでみたら、どハマリしちゃって。それからそのシリーズだけは読んでるの」
なるほど、それなら無理もない……のか? 分からん。けど、これしか読んでいないのは少しもったいない気がする。
「他にも読んでみたら?」
「え?」
「同じ作者の前作も面白いぞ。『ハリモグラの夢』っていう小説で、こっちも戦争をテーマにした物語なんだ。月と人シリーズと違うのは、一巻で完結してることと、ファンタジーじゃなくてSFっぽいテイストで書かれてるとこだな。ちょっと哲学的な要素も含まれてるけど文章は読みやすいし、ブラックジョークみたいなちょっと笑えるネタが散りばめられてるから読んでてストレスを感じなくて──」
と、そこまで
急に恥ずかしさがこみ上げてきた。面倒くさいオタクだと思われたかも、と考えて後悔する。だが俺の予想に反して、彼女は目をキラキラさせていた。
「
「そ、そう……?」
よかった、引かれてはいないようだ。どころか好感触っぽい。
「私もいろいろ読みたいと思ってるんだけど、何がいいのか分かんなくて……あ、そうだ!」
「ね、アドレス交換しよ。そんでさ、またオススメ教えてよ」
連絡先の交換。一体いつぶりだろう。高校に入ってからは、片手で数えるほどしか経験したことがない。
「あ、ああ。分かった」
一大イベントに緊張しながら、俺は再び机の中を探る。今度はすぐに分かった。当初の目的だった携帯を取り出し、画面を開く。そこからメニューを押して……ええと。
「……赤外線通信って、どうやるんだっけ」
「え、知らないの?」
「忘れちゃったんだよ。連絡先とか、めったに交換しないから」
「へー、そうなんだ。じゃあ紙木くん、どうやって友達作ってるの?」
そんなの、こっちが聞きたい。
「さあ、どうやってだろうな……友達自体、かなり少ないから。はは……」
言ってから、よくないな、と思った。そんな卑屈な発言をしても、星原を困らせるだけだ。
しかし彼女はさして興味もなさそうに「ふーん」と
「携帯、ちょっと触ってもいい?」
「ああ」
俺は自分の携帯を渡す。
すると星原は、俺の携帯をポチポチいじりだした。さすが今どきの女子、
「はい終わった」
俺は星原から携帯を受け取る。画面を見ると、アドレス帳に新たな名前が追加されていた。
『
実にシンプルな表記。だがその名前は、たしかに
顔を上げると、星原はニッと無邪気な
「これで友達プラス一人だね。おめでと、
パチパチと控えめに拍手をする星原。
「あ、ありがとう」
俺はぎこちなく礼を言う。なんだか顔が熱かった。それを悟られるのが
動揺する俺をよそに、星原は
「じゃ、私は先に帰るね。ばいばい」
「ああ、ばいばい……」
別れの
教室に静けさが戻る。
星原が出ていったあとも、胸のむずむずは治まらなかった。どころか徐々に心拍数が上がり、ドッドッと音が聞こえそうなくらい激しい
星原の笑顔が頭に
また星原と話せる。そう考えると、
──あ、やばい。
暴れる心臓を押さえるように、胸に強く手を当てる。この感じ、前にも一度、味わったことがある。
遠くで吹奏楽部の演奏が始まった。何か壮大な物語の始まりを思わせるオーケストラ。そこに野球部のかけ声が重なる。そして、金属バットが「カキン」と硬球を
星原のこと、好きになったかもしれん。
学校から家まで立ち漕ぎで帰った。
家に着いたらすぐ自室のベッドに飛び込んだ。
まだ、心臓がドキドキしていた。ポケットから携帯を取り出し、アドレス帳を開く。そこに入力された『星原夏希』の並びを見ると、自然と
『おめでと、紙木くん!』
「~~~!」
意味もなく足をバタつかせた。ベッドがギシギシと音を立てる。それでも落ち着かなくて、部屋の中を歩き回った。すると隣の部屋から壁を「ドン!」と
「うっさい! 死ね!」
そう
でも、たしかに興奮しすぎたかもしれない。
深呼吸。息を吸って吐いてを繰り返す。……よし、冷静になった。
星原……星原
「浮かれすぎだ、バカ……」
額を押さえたまま頭を振る。
たかが連絡先を交換したくらいで、何をはしゃいでいるのだ、俺は。チョロすぎるにもほどがある。中学の一件から何を学んだ?
俺は今、盲目になっている。だから星原のいいところしか見えていないし、星原の言動をいいようにしか解釈できない。もっと客観的になれ。冷静に現実を見ろ。
いいか。たしかに星原は可愛くて明るくて優しい子だ。だからこそ、俺以外に彼女のことを好きになる人はきっといる。星原に関する浮いた話は聞かないが、彼氏がいてもおかしくない。たとえいなかったとしても、星原に好きな人がいる可能性もある。それこそ、中学のときみたいに。
好意と笑顔の裏側には、いつだって打算がある。中学で、そう胸に刻んだのを忘れたのか?
……よし。頭の芯が冷えてきた。
とにかく、慎重になろう。星原への好意は、一時の気の迷いという可能性もあるし。だから決して告白などという血迷った
興奮が冷めたところで、ベッドに放っておいた携帯が震えた。
画面を見ると、メールが届いていた。送り主は──星原。
『
メールには、部屋で撮ったと思われる書影の画像が添えられていた。
まさか、オススメした当日に買ってくれるなんて!
激情が再燃する。俺はまたベッドに飛び込んで、思いっきり足をバタバタした。
隣から壁ドン。
「死ね!」
だから死ねはあんまりだろ。
その後、
文面を考えるだけでやけに疲れてしまった。それに、返事を待つあいだの一分一秒の長いこと! もっと気の利いたメールを送れたら、と後悔することもあったが、今は打ち震えるような歓喜で胸が満たされていた。気づけば口角が上がり、居間で夕食を取っているときも「何ニヤニヤしてんの? きも」と
時刻は夜八時。
いまだに胸の高ぶりは治まらなかった。無意味にそわそわしてしまい、じっとしていると落ち着かない。かといって家で動き回るとまた彩花に怒られるので、散歩でもすることにした。
親に一言入れて、家を出る。
蒸し暑かった昼間と違い、外は涼しくて快適だった。絶えず優しい風が吹いていて、虫の
俺は歩みを進める。住宅街を抜けて国道沿いに進み、角を曲がると、一級河川に突き当たる。そこから川沿いの土手道を、のんびり歩いた。
昔はホタルの
俺は空を見上げる。月は弓を張り、欠けた部分を視認できるほど明るい。星は瞬き、薄い雲が流れている。いい夜だ。
気がつくと、家からずいぶん離れた場所まで来てしまっていた。携帯の時計を見ると、すでに九時を回っていた。もうこんな時間か。そろそろ帰ろう。
「……ん?」
ふっ、ふっ、と短く息を吸う音。しゃっくり……だろうか。
俺は立ち止まり、辺りを見渡す。国道側の土手下には、小さな公園がある。そこのベンチに誰かが座っていた。こちらに背を向け、深くうなだれている。顔は見えないが、外灯のおかげでセーラー服を着ていることが分かった。よく見ると、
何か複雑な事情を
……と思ったのだが、どうも後ろ髪を引かれた。
あの子のセーラー服は、おそらく俺の母校であり
少しばかり
公園の出入り口に回り、彼女を正面から見据える。うなだれたまま顔を両手で覆っており、依然として表情は読めない。だが、一つ気づいたことがあった。
彼女は、明るい髪色をしていた。
日本人離れした、透き通るような色素の薄い髪──いや、光の加減でそう見えるだけかもしれない。でも、もし、本当にそういう髪色だとしたら……だとしたら、なんだ?
いや、まさかな、と俺は苦笑する。
とりあえず、もう少し近づいてみよう。
一歩ずつベンチとの距離を詰めていく。よく見ると、その人の格好は奇妙だった。上はセーラー服で下はスカート、それだけなら何もおかしくはない。ただ、服のサイズが明らかに小さいのだ。肩周りの生地はピンと張り、丈が短いせいでへそ周りの地肌が見えている。しかも、なぜか靴を履いていなかった。靴下もだ。
近づくたび、俺は鼓動が速くなるのを感じた。それは決してワクワクとかドキドキとかポジティブな感情ではなく、不安に近しいものだった。異質で、理解できないものを
三メートル、二メートルと近づいたところで、ざり、と俺は足音を立ててしまう。
ベンチに座るその人が、勢いよく顔を上げた。その拍子に、ショートの髪が一瞬膨らむように揺れる。
ここまで来ると、もう疑いようがなかった。
その髪は、見慣れた銀色をしていた。
そこに座っていたのは。
「……
俺の
もちろん、脱色したり染めたりすれば、誰でも汐のような銀髪になれるだろう。でも、こうして目の前で顔を見たからには、もう汐本人で間違いない。
汐は、驚いて声も出ないというふうな表情をしていた。ただでさえ白い肌から、完全に血の気が引いている。おそらく、さっきまで泣いていたのだろう。青白い顔に、赤く
なぜ泣いていたのか。それはきっと汐の服装と関係がある──のは分かる。分からないのは、どうして女装なんてしているのか、だ。元からそういう趣味があったのだろうか。
ここまで来たら、見て見ぬ振りはできない。
「う……汐、だよな? そ、それ、どうしたんだ?」
おそるおそる問うと、汐は
「
聞き慣れたハスキーボイスから、
汐はなんとか言葉を紡ごうとしているが、口からはかすれた息が
「だ、大丈夫か汐!」
そう呼びかけた瞬間。
「──うえ」
汐は背中を丸め、吐いた。びちゃびちゃと音を立てて
汐は魂が抜けたように
公園に一人、俺は取り残された。こんなときでも虫の
俺は。
俺は、取り返しのつかない間違いを犯してしまったかもしれない。
*
家に帰ったあと、すぐ自室のベッドで横になった。
現実感がなかった。今でも夢を見ているみたいだ。思い返してみても、あの公園での出来事はあまりに
俺は見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。この後味の悪さは、罪悪感に似ていた。自分のせいではないと分かっているのに、妙な責任を感じている。俺があの時間に公園の横を通らなければ、汐をあれほど
俺は携帯を開き、アドレス帳を見る。そこには『
俺はその気になれば、今からでも汐に事情を
今夜、見たことはすべて忘れる。
「……それが、いいのかもしれない」
天井に向かって
ふと、あることを思い出した。昔読んだ本に載っていた話だ。
『誰もいない山に雷が落ちた。この雷は、音を立てたか?』
この問いに対する答えは『立てていない』だ。なぜなら、誰も雷の音を聞かなかったから。
誰の記憶にも記録にも残らず、そこに
月曜日、学校に行ったらいつもどおりに振る舞おう。決して、汐に対して変に気を使ったりしないように。今までと同じ、汐はクラスの人気者で、俺は日陰者に徹する。それが汐にとっても俺にとっても、きっとベストな選択だ。
よし、それで行こう。
結論から述べると、休みが明けても汐は学校に来なかった。欠席理由は風邪になっていた。
クラスメイト数人が汐のことを心配したり茶化したりするくらいで、二時間目になる
あんなことがあったのだから、一日くらい学校を休んでもおかしくない。俺はそう思うようにした。明日になったら何事もなかったように汐は登校してくるだろうと。
でも、次の日も汐は学校を休んだ。
その次の日も。
その次の次の日も……。
日を追うごとに、汐のことを心配するクラスメイトは増えていった。特に汐と仲のいい連中の不安は顕著に表れていた。朝、学校に来て汐の欠席を知るやいなや、グループ内で深刻そうに顔を見合わせて「何かあったんじゃ」「ひょっとして急病とか?」「部活にも来てないんだって」などと話していた。
これは小耳に挟んだことだが、誰も汐と連絡がつかなくなっているらしい。家に出向いても会わせてもらえないだとか。クラスメイトたちが不安になるのも無理はなかった。
俺は悩んだ。
やはり、汐に連絡するべきか。それか直接、会いに行くか。
汐のことが心配だった。もしこのまま学校に来なかったら? そう考えると、胸が痛んだ。あの夜、散歩なんかしなければと後悔した。
どうすればいいのか分からないまま、日は流れていく。
そして一〇日が過ぎ、六月も下旬に差し掛かった頃。
朝のHRで、
*
「入ってきて」
静まり返った教室に伊予先生の声が響く。
クラスメイト全員が扉に注目した。するとひと呼吸置いて扉が開き、一人の生徒が教室に入ってきた。
教室がざわつく。
ごくりと
教壇に立つその生徒は、
白状すると、色白で細身な汐に、女子の制服はよく似合っていた。あの公園で見たような窮屈さはない。スカートからすらりと伸びる黒いタイツには、思わず視線を吸い寄せられる。美少年的なルックスも相まって、何も事情を知らない人が見れば女の子だと思うだろう。
だが、同じクラスメイトの俺たちは、汐が男であることを知っている。体育になれば汐は男の中で着替えていたし、汐の所属は男子陸上部だ。だからみんな困惑して、どうリアクションを取ればいいのか分からずにいるようだった。
そんな不安定な空気のなかで、汐はゆっくりと口を開く。
「休んでいるあいだ、メールや電話に
当たり前だが、服装を変えても声は男のままだった。
無表情で、汐は
「突然のことで驚かせてしまったと思います。実は今まで、自分の性別に疑問を持ちながら生きていました。先週、家族と話し合っていろんなことに決心がついたので、今日から女子としてやっていきます。皆さん、よろしくお願いします」
言い終わると、教室に重い沈黙が下りた。
前方の席で、いつも適当なことをくっちゃべっている男子が手を挙げる。
「え、つまり女の子だったってこと? 汐くんじゃなくて、汐ちゃん?」
軽薄な声が沈黙を切り裂く。教室のどこかで小さな笑い声が聞こえた。
「……別に、そういう認識でもいいよ。呼び方も、自由にしてくれて構わない」
「じゃあさ、トイレとかどうすんの? これからは女子トイレですんの?」
「それは……」
汐は口ごもる。ばつが悪そうに
すると今度は、別の男子が「ていうかさぁ」と間延びした声を上げた。
「すげえ重い空気になっちゃってるけど、さすがに冗談だろ? めちゃくちゃ気合い入ってるからビビるわ」
なぁ、お前もビビったよな? とその男子は隣のクラスメイトに同意を求める。
「うん、マジでびっくりした」「まぁ俺は最初から冗談だと思ってた」「けど似合ってるよね」
その男子を中心に、汐をネタにする空気が広がる。彼らは遠回しに「早くネタバラシしちゃえよ」と汐に伝えているように見えた。そこに悪意は感じられない。むしろ、汐に気を使ってそういう空気を作っているのだろう。これ以上、クラスの人気者に恥をかかせないために。
だが汐は、首を横に振った。
「冗談じゃない」
そこまで大きくはない、だが強い意志のこもった
クラスメイトの面々は言葉を失い、再び教室は沈黙に包まれる。
「冗談なんかじゃ、ないんだ」
どこまでも真剣な表情で、汐は繰り返した。
凍りつく空気。
隣のクラスから聞こえてくる先生の声が、しんとした教室にやけに大きく響いた。
「──はい、こんなとこでしょう!」
さっきまで静観していた
「それじゃあ汐は席に戻って! 授業、始めちゃうよ~。今日は漢字テストあるから、みんな覚悟しときな!」
威勢のいい声に、クラスメイトたちは思い出したように国語の教科書を机に出す。
汐は軽く伊予先生に会釈して、自分の席に向かった。
まるで
一時間目が終わるなり、多くのクラスメイトが汐の席に殺到した。
「その制服買ったの?」「昔から女の子になりたかったとか?」「もしかして下着も女物?」
無遠慮な質問が汐に投げかけられる。その一つひとつに、汐は
「えらいことになってるな」
声のしたほうを見ると、そばに
「そうだな。本当、びっくりしてる」
「昔もあんなことが?」
「まさか、初めてだ。そりゃあ顔は美形だから、幼い
「実は女の子だったり、とかは?」
「しねえよ。……たぶん」
「え、自信ないのか」
思い返せば、本当に男かどうかをこの目で確認したことはない。互いの家に泊まることはあったが、
あ、あれ? もしかして、本当に女の子だったりするのか……?
いやでも、小学校低学年くらいの頃に何度か連れションした記憶がある。そのときは並んでしていた気がするが、その、実物を見たことはない。ん? でもついてなかったら、そもそも立ってできない……のか?
汐の性別が怪しくなってきたところで、蓮見が「まぁ普通に男だろうけど」と
「なんでそう言えるんだよ」
「それ本気で言ってんの? さすがに性別偽ってインターハイには出られないでしょ」
あ。それもそうか。男女でどうしても筋力の差があるし、部活を続けながら本来の性別を隠し通すのは無理だろう。特に陸上部のユニフォームなんかは、ぴっちりしたものが多いし。
「そっか……じゃあ、やっぱ
「でも、ちょっと
「ええ?」
蓮見のセリフに虚を突かれる。
「だって
「あー、なるほど……」
素直に感心してしまう。さっきのインハイ
たしかに、汐はモテるわりに浮いた話は聞かなかった。てっきり理想が高いか本命の相手がいるからだと思っていたが、そもそも女子に興味がなかったのかもしれない。といっても、心が女だからといって、恋愛対象が男になるかどうかはよく分からないが。
俺は汐に目をやる。
今もなお、記者会見のように汐は質問攻めを食らっている。汐の顔には、少しだけ疲れの色が見えた。
『今日から女子としてやっていきます』
教壇に立つ汐の、あの目。尋常ではない決意を感じた。あの夜、公園で泣いていた汐とは明らかに違う。一体、何が汐をそこまで突き動かしたのだろう。
「おい、どういうことだよ!」
突然の怒声に心臓が
俺と汐──いや、クラスメイト全員が声のしたほうに目をやる。
教室の扉の前。そこに、浅黒く日焼けした長身の男子が立っていた。あいつはたしか、陸上部の
能井はずかずかと教室に入り込んできて、汐の前で立ち止まる。
「なぁ、ふざけてんのかよ。汐」
怒気を含んだ声。他のクラスメイトは口を
「ふざけてるつもりはないよ」
汐は
「だったら、なんで部活に来なかったんだよ。風邪ってのは
「陸上はもう辞めた」
「は?」
ざわりと教室がどよめく。驚いたのは能井だけではなかった。
一年生でインターハイにも出場した汐が、陸上部を辞める。帰宅部の俺でも、それがどれだけ
汐は申し訳なさそうな顔をする。
「相談もせずに辞めて悪かったよ。けど、もう決めたんだ。退部届も朝一番に出してきた。陸上部には、戻れない」
「てめえ、ふざけんなよ」
能井が汐の胸ぐらを
慌てて止めに入ろうとした男子を、汐がさりげなく手で制した。汐は落ち着いた──というより、どこか
「風助は、ぼくを殴っていいよ」
「……最後に一つだけ
一触即発の空気だった。教室のいたるところに、緊張の糸がピンと張り巡らされているのを感じる。
「ああ。本気だよ」
「分かった。もういい」
ぱっ、と
汐はゆっくりと席に着き、乱れた
能井は汐に背を向けて、
「見損なった」
とだけ言い残し、静かに教室から出ていった。
しばらく誰も、何も言えなかった。
*
二時間目の途中で気づいたことがあった。
たぶん、事前に汐が学校に事情を伝えていたのだ。だから先生たちは、汐の服装にあえて触れないでいる。準備がいいというか、徹底しているというか。本人も言っていたとおり、汐は本気なのだ。本気で、女子としてやっていくつもりなのだ。
「……分かんねえ」
つい独り言が
顔も頭も性格もよくて、そのうえスポーツ万能、しかも女子にモテまくり。それほどたくさん持っているヤツが、これから女子としてやっていく。正直、めちゃくちゃもったいないと思う。汐にとっては、そういう問題ではないのだろうけど。
「やっぱり分からん……」
「ん?
しまった! 英語の先生に聞かれた。ていうか、最後尾の席にいて先生に聞かれるとかやばすぎる。どれだけでかい独り言だったんだよ。
「す、すいません。なんでもないです。大丈夫です」
「そうですか? なら構いませんが」
周りのクラスメイトが
ちゃんと授業に集中しよう。思えば一時間目の国語も全然勉強に身が入らなかった。期末考査が近づいているし、今後の授業は余計なことを考えないようにしないと。
──今後の授業。
そういえば、次は体育だ。
チャイムが鳴って英語の先生が退室すると、俺は
体育になると、男子は今の教室、女子は更衣室で着替えることになっている。すでに大半の女子は教室を離れていた。
汐は、どうするんだろう。
普通に考えれば、今までどおりこの教室で着替える。しかし女子としての学校生活を徹底するなら、女子更衣室で着替える……ことになるのだろうか。
俺と同じ疑念を抱いているクラスメイトは他にもいるみたいで、彼らは友達と談笑しながらも、汐を凝視していた。
汐は学校指定のジャージを
え、マジ?
誰かがそう
男子数人が中途半端に着替えたまま、扉から顔を出す。俺もさりげなくその中に交ざった。
汐は女子更衣室とは逆方向に向かっていた。階段の前を通り過ぎた辺りで足を止め、そばの多目的室に入る。男子も女子もいない空間。あそこが汐専用の更衣室となるらしい。
汐を眺めていた周りの連中は「女子更衣室じゃねえんだ」「ちょっとがっかりしたわー」などと好き勝手に言いながらその場で着替えを再開する。俺は急に野次馬をしていた自分が情けなくなって、そそくさと彼らから距離を取った。
「つーか汐のあれ、マジだと思う?」
自分の席に戻ると、近くにいた男子の会話が聞こえた。
「マジでしょ。さすがにここまで来て冗談でした、はない」
「だよなー先生も知ってるみたいだったし。びっくりだわ」
「でも前から汐って、なんか女っぽいつうか……ちょっとアレっぽいとこあったよな」
「あー、分かる。てかちょっと思ったんだけど、やっぱ汐って男が好きなんかな?」
「ええ? いや、それはないでしょ」
「でもさー、汐、自分の性別に疑問を持ってた、とか言ってただろ? それってようするに、中身は女ってことじゃん。なら、普通に考えて恋愛対象は男になるでしょ」
「言われてみればたしかに……じゃあ、今まで着替えのときとかどんな気持ちだったんだろうな、汐」
「そりゃお前、裸いっぱい見られてラッキー、とか?」
「あり得る」
わけないだろバカ。
クソみたいな会話に俺は耳を
「てか男が好きって、もろアレじゃん」
「アレってなんだよ、ちゃんと言葉にしろよ」
「いやお前、言わなくても分かってんだろ。そりゃオ」
そこで理性が勝った。急いでジャージに着替えて俺は教室を出る。そのまま一人で体育館へ向かった。
本当にしょうもないヤツらだ。小学生かよ、と思う。
内心であいつらへの愚痴を吐きながら、俺は過去の出来事を思い出していた。
俺が小学二年生か三年生のときだ。通学路沿いにあるボロっちい平屋に、二人のおっさんが住んでいた。髪が薄いおっさんと、小太りなおっさんだ。二人は朝になると、いつも家の前でラジオ体操をするので、俺たちのあいだでは有名人だった。けど、決して人気者ではなかった。彼らはこの
町の大人は「あの人たちには話しかけるな」と口を
だから、上級生が度胸試しで彼らの家に空き缶を投げ込んだり、窓に生卵をぶつけたりしたという話を聞いても、「うわぁ……」以外の感想がなかった。
彼ら二人はとっくに引っ越したようだが、ボロっちい平屋は今でも残っている。
今なら分かる。きっと椿岡には『排他的』の三文字が地中深くに埋まっているのだ。だから椿岡に住む人間はすぐ偏見を持ったり周りと違う人間をバカにしたりする。もちろん全員が全員そうではないし、自分が潔白だとも思っていないが……。
とにかく、すべて椿岡がクソ田舎なのが悪い。
その日の体育は、男子はバレーボールで、女子はバドミントンだった。汐はどちらにも参加しなかった。見学だ。ジャージには着替えているものの、端っこのほうで体育座りし、黙ってレポートを書くだけ。たまに汐の様子を横目で
体育が終わり、休み時間は移動と着替えだけで
四時間目の数学は、いつもとなんら変わりなく進行し、チャイムと同時に終わった。
昼休みが訪れる。
いつもはチャイムが鳴り次第、五、六人のクラスメイトが
「
「そりゃあ、あんなことになったらな……」
「槻ノ木の友達は薄情だな。難ありだと分かった途端に、みんな距離を置いてる」
そう毒づきながら蓮見は弁当を開き、箸を手に取る。
蓮見の言うとおりだ。だがその「槻ノ木の友達」という
苦々しい気持ちで俺は
「蓮見、そうでもないみたいだぞ」
蓮見は口に物を含んだまま汐のほうを見る。
汐に近づいたのは、
「よかったら、こっちで一緒に食べない?」
星原は控えめな
その光景を目にして、俺は
「じゃあ……そうさせてもらおうかな」
汐は心なしか嬉しそうに、弁当を持って席を立つ。
星原に連れられ、机を四つくっつけたグループに汐が加わった。そこに元からいたのは星原を含めて四人。
汐が遠慮がちに弁当を広げると、真島がメロンパンを片手に口を開いた。
「ねえねえ、部活辞めたのってマジなの?」
あまり触れてほしくない話題なのか、汐は少し表情を険しくした。
「……ああ。そうだよ」
「じゃあさ、女子ソフト来なよ。汐なら即レギュラーだよ」
目を丸くする汐。俺も少し驚いた。
真島は、そういうことを言える人だったのか。知らなかった。今まで西園の取り巻きくらいにしか思っていなかったことが、急に申し訳なくなってくる。
「あ、大会には出られないのかな? でも身体検査とかはないし、なんとかなる……?」
「マリン、先走りすぎ」
と
ちなみにマリンというのは真島のあだ名だ。真島
「えー? でも
汐は苦笑する。
「気持ちはありがたいけど……これから部活に入るつもりはないんだ。ごめん」
「ありゃー、残念」
それより、と椎名が話を切り出した。
「
「あー、うん……親にしたほうがいいって言われて、少しだけやってもらった」
「へえ、いいんじゃない? 違和感ないし、女子の制服も似合ってると思うわ」
「ほれ! あたひも思っは!」
「なっきー、
真島が星原に注意する。
星原はペットボトルのお茶をあおった。
「しいちゃんの言うとおりだよ! 汐くん、
「はは……ありがとう。さすがに
「んなことないって! 私なんかもう全然だから!」
星原は興奮気味に褒めそやす。汐はまんざらでもなさそうに、表情を柔らかくしていた。
会話の内容は、普通の高校生にとっては少し不自然かもしれない。だが遠目には、顔のいい女子たちが集まって、何気ない談笑に興じているようにしか見えなかった。平穏を絵に
俺は思った。
──汐、わりと普通に受け入れられてんじゃん。
朝のHRといい、
「ね、アリサも似合ってると思うよね!」
ない、と思ったが、肝心な生徒を忘れていた。
おそらく、このクラスで一番恐れられている生徒。
高飛車で
そんな実力派なクラスの女王様が、汐を受け入れるかどうか。そこがはっきりしないことには、まだ不安が残る。
「ん、ごめん聞いてなかった。何?」
「もう、ちゃんと聞いててよ。汐くんの制服が似合ってるよね、って話」
「ああ、汐……」
西園は
汐が加わってからずっと続いていた会話が止まった。四人とも西園の反応を待っている。
少し長めの
「うん、似合ってる」
星原は満面の
「やっぱアリサもそう思うよね!」
「汐は元がいいからね。そりゃ似合うでしょって感じ。しっかりメイクしたらもっと様になるんじゃない?」
「あ、それいいね!」
「あとは服装かなー。骨格が目立たない服を着るとか」
「なるほど~私服のことまで考えてるんだね!」
「ていうか、汐さ」
ん? と汐が反応すると、西園は何気ない調子で続けた。
「その女装、いつやめんの?」
星原の笑顔が固まった。西園グループの空気が、一瞬で張り詰めるのを肌で感じる。
汐の顔から、笑みが消え失せた。
「……やめないよ」
「なんで?」
「そういうふうに生きるって、決めたから」
「何それ。今まで男として生きてきたんでしょ? じゃあそれでいいじゃん」
「よくない。今までが間違ってたんだ。これからは、正しく生きる」
「正しく? 正しくって何? 男の
「そんなこと──」
「ないことないでしょ。完全に間違ってるよ。別に女の子の服を着るなって言ってるわけじゃないんだよ。スカートでもタイツでも
「だからさ、マジで明日には戻したほうがいいよ。何日も続いたら、さすがにみんな本気にしちゃうし。
「アリサ」
汐がいつもよりワントーン低い声で名前を呼ぶ。
そして
「男の
その言葉を聞いた途端、西園の顔がみるみるうちに嫌悪と拒絶の色に染まっていく。まるで耐えがたい汚物や親の
「きっしょ。マジで無理だわ」
「似合ってるとかなんとか言ったの、あれ、全部お世辞だから。真に受けないでよ」
そう吐き捨てて、別の女子グループに移った。そこで何事もなかったように、西園は彼女らの会話に加わる。
*
今日一日の授業がすべて終わり、放課後が訪れた。
汐は黙々と帰り支度をしていた。部活を辞めた今、あとは帰るだけなのだろう。誰も「一緒に帰ろう」と汐に声をかける人はいない。
俺は数時間前のことを思い出す。
昼休み──西園が去ったあと、
クラスの人気者から、ひとりぼっちに。汐の胸中を推し量ると、胃がキリキリと痛む。何も悪いことなんてしていないのに。周りが戸惑う気持ちはよく分かるが、誰も汐を
……なんだかイライラしてきた。
このイライラはクラスメイトに対するものではない。ただ汐に同情するだけで、手を差し伸べるどころか声すらかけなかった、薄情な自分に対するイライラだ。
考えてみれば、こうして汐が女子として登校してきたことに、俺にも責任の一端があるのではないだろうか。俺があの夜、セーラー服を着た汐を目撃しなければ、もう少し波風立てないやり方で、汐は自分の秘密を打ち明けていたかもしれない。
もちろん、ただの推測でしかない。だが少しでもその可能性があるならば、俺はせめてもの償いをすべきだろう。
俺は
汐がこちらに気づき、俺は机の前で足を止める。
クラスメイトたちの視線が集まってくる。逃げだしたくなるのを我慢して、俺はできるだけ自然に
「あー、その、よかったら……い、一緒に帰らないか?」
こんなふうに誰かを誘うのは慣れていないので、しどろもどろになってしまった。
汐は目を
「うん。帰ろう」
外の空気は、六月らしい湿り気を帯びていた。
自転車を押しながら、俺と汐は舗装された田んぼ道を並んで歩いていた。登下校に使う一本道とは別の、細い道路だ。住宅街までやや遠回りになるが、車も自転車もめったに通らないので、
俺は汐を横目で
視線を下げていくと、控えめに突き出た
「……
「え? あ! す、すまん!」
慌てて謝る。勝手に品定めみたいな
汐は不安そうに視線を下げる。
「やっぱ、変……?」
「いや、そんなことないって! 女子って言われても普通に通用する。全然、変じゃないから。これはマジで」
「そ、そう? なら、いいけど」
俺は内心ホッとする。学校で散々な目に
「今日は大変だったな。休み明けだってのに、いろいろあって……」
「ああ……今日は本当、めちゃくちゃ疲れた。もうくたくただよ。フルマラソンを完走したときでも、ここまで疲れなかった」
おかげで今夜はよく眠れそうだけどね、と言って汐は苦笑いを浮かべる。数年ぶりに汐の口から弱音を聞いた気がする。それほど
「あとはゆっくり休んでくれよ」
「うん、そうする」
汐が
唐突に、一〇日前のあの夜──セーラー服を来てベンチに座る汐の姿が、脳裏に浮かび上がった。あの夜、何があったのか。それはこの一〇日間、ずっと俺を悩ませてきた
他の話題を探しながら、田んぼのほうに目をやる。アオサギがそろりそろりと歩きながら、たまに泥中の虫をついばんでいた。やがて大きく翼を広げ、飛び立つ。青い空には二本の飛行機雲が交差していた。
「こうして
ふっと頭に
「中学からだっけ、一緒に帰らなくなったの」
「ああ。お互い違う部活に入ったり……いろいろ、あったから」
この「いろいろ」は俺だけの事情だ。あえてあやふやな言葉を使ったことに、少し罪悪感を覚える。けど汐は特に気にする様子もなく、静かに口を開く。
「いろんなものが変わっていく……ぼくは、ずっと小学生のままがよかったよ」
「そうか? 俺はさっさと高校を卒業して、こんな田舎から抜け出したいけどな」
「
「この町は田んぼに囲まれた
「はは、何それ」
笑ってくれて安心する。半分くらいは本気で言ったつもりだが。
田んぼ道も終わりが近づき、正面に団地が見えてくる。団地の手前で、
汐はそんな彼女らを見るなり、なぜか
「どうした?」
と俺が
「何がって。今、ため息吐いてたから」
「あ、聞かれてたか……ごめん。ちょっと、妹のこと思い出して」
「なんかあったのか?」
「ここ最近、
あの操ちゃんが? 反抗期、とは聞いていたが……ひょっとして、汐の格好に関係しているのだろうか。
「それ、理由を
一瞬、汐の顔が
「いいよ。楽しい話じゃないけど、いずれ咲馬に話そうと思ってたし」
「俺に?」
「一〇日前のことなんだ」
俺はドキリとする。汐はあの夜のことを話すつもりなのだろうか。あえて触れないでいたが……正直、気になってはいる。
俺は息を
「帰りが遅くなるって書き置きが、机の上にあったんだよ」
部活が終わって、家に着いたのは、たしか七時くらいだったと思う。
あの日、家には
それで、操に声かけたら、
「机の上」
って言われてさ。見てみたら、さっき言った書き置きがあったわけだ。職場の飲み会に参加して帰りが遅くなります、ご飯は冷蔵庫にあるので温めて食べてください……って。ご飯だけ作って、また家を出かけたらしい。
そういうこともあるか、って思って、先にシャワー浴びることにしたんだ。それで、さっぱりして脱衣所から出てきたら、操が外行きの格好してて。
「どっか行くの?」
って訊いたら、
「友達と勉強会。ちょっとファミレス行ってくる」
そのとき、もう夜の八時だった。八時だよ? そんな時間に中学生だけで外を出歩くのは危ないし、勉強なんて家でもできる。そう言ったんだけど、話、全然聞いてくれなくて。
「うるさいな。一〇時までには帰るから」
って言って、出て行っちゃったんだよ。昔はぼくにべったりだったんだけど……これってやっぱり、反抗期だよね。
とにかくそんな感じで、家にはぼく一人になった。
ご飯食べて、柔軟して、そしたら暇になっちゃって。宿題もなかったし、だらだらテレビ見てた。適当にチャンネル回してたら、全国のすごい高校生特集、みたいなのやっててさ。セーラー服を着た女の子が、ギター弾きながら、楽しそうにアニソンを歌ってたんだよ。
それ見て……なんだろうね。なんか、悲しくなっちゃってさ。ぼくとあの子で何が違うんだろう、ってそりゃまぁいろいろ違うんだけど、すごく落ち込んで。
ふと、思ったんだ。
思ったっていうか、衝動みたいな感じだった。
確認したくなったんだよ。セーラー服が、自分に似合うかどうか。
こんなことは初めてだった。心臓をバクバクさせながら、階段を上って、何年かぶりに操の部屋に入った。制服は壁に
それで、散々迷ってから、思い切って着てみたんだ。かなり小さかったけど……入った。スカートのフックもちゃんと留まった。タイは、結び方が分からなかったから、しなかった。
そばにあった鏡を見て、「これはいけるんじゃないか?」って思ったよ。あのとき、アドレナリンとかドーパミンとか、そういう脳内物質がドバドバ出てたと思う。それで、ここまで来たら靴下も合わせてみよう、って気分になってさ。今思うと正気じゃなかったね。
でも、さすがに妹のチェストを開ける気にはなれなくて。やっぱり、
少し考えて、洗濯して畳まれた操の靴下がリビングに置いてあったな、ってことを思い出したんだ。それで、操の部屋を出て、階段を下りたら──あー……
うん……帰ってきたんだよ、操が。
完全に油断してた。家を出てから三〇分も
ぼくも操も、完全に凍りついた。一分くらい、本当に何も言えなかった。
最初に操が「何それ」って言ったんだ。「なんで私の制服着てるの」って。
説明のしようがなかった。妹のセーラー服を着る正当な理由なんて、どこにもないんだよ。
ぼくが答えられずにいたら、操は……なんていうか、もう、壮絶な状態になった。止まらなかった。あれだけの
それで、ぼくは……逃げたんだ。靴も履かずに、家を飛び出した。走ってるうちに、とんでもなく
そこで起こったことは、説明しなくても知ってるよね。
あのあと、家に帰ったら父さんと
で、操は……あれから口を利いてくれなくなった。ただ、たまにすごい目でぼくのことを見てくるんだよ。まぁ、全部、ぼくのせいなんだけどさ。
……と、ずいぶん長話になっちゃったけど、そんな感じだ。
ふぅ、と
俺は頭の中がぐらぐらしていた。ある程度の覚悟はしていたが……想像以上に重い。正直、反応に困る。けど、絶対にそんなことは言えない。たぶん汐は、あえて赤裸々に話すことで、過去に折り合いをつけようとしているのだ。ひょっとすると、笑い飛ばしてほしいのかもしれない。
でも、俺は笑うどころか「大変だったな」の一言すら言えなかった。何を言っても薄っぺらな励ましにしかならない気がした。それでも何か言わなきゃ、という気持ちだけが先行して、バカみたいに口を半開きにしているしかなかった。
「あー、ダメだ。話したら楽になるかと思ったけど、
汐は足を止める。
気づけば住宅街の手前まで来ていた。この
「ごめん。せっかく誘ってもらったのに、こんな空気にしちゃって」
「いや、全然、そんなこと。そもそも、俺が最初に
「いいよ。いつか話すつもりだったし」
汐は薄く
「……あんまり、無理するなよ」
「してないよ」
やや食い気味にそう返事をして、汐は数歩だけ足を進めた。
「ねぇ、
視線を俺に向ける。汐はこちらを見ているのに、どこかずっと遠くのものに焦点を合わせているような感じがした。
「ぼく、間違ってるのかな。それとも、間違えたのは──」
そこで言葉を切り、
「ごめん、なんでもない。今日は誘ってくれてありがとう。それじゃ」
自転車に
汐の背中が見えなくなるまで、俺は
*
別れ際に見た汐の悲しそうな顔が、ずっと脳裏に焼き付いていた。
あのとき、俺はどんな言葉をかけてやるのが正解だったのか。帰宅してから、着替えもせずベッドに寝転がってそんなことを考えていた。かれこれ一時間くらい
思えば今日一日、汐のことばかり考えている。少し前まで別世界の人間だと思っていた相手のことで、どうしてこれほど頭を悩ませているのか。自分が分からなくなってきた。
「はぁ……」
「電子辞書貸して」
俺は反動をつけて上体を起こす。
「あのさ、毎回言ってるけど、部屋入るときくらいノックしてくれよ」
「やだ」
なんでだよ。たかがドアを二、三回
ここは一つ、キツく注意を……と思ったがやめた。俺が怒ると、彩花は俺の弱みや触れてほしくない部分を、ひたすら容赦なく攻撃してくる。切れ長の目といい、肩でスパッと切り
「しゃあないな……。たしか、どっかの引き出しに……」
ベッドから立ち上がり、勉強机に向かう。引き出しを上から順に開けて、電子辞書を捜した。
「……なぁ。彩花はさ、友達が秘密を打ち明けてきたらどうする?」
手を動かしながら、さっきまで悩んでいたことを口に出した。
「友達? お兄にいたの?」
「失礼なヤツだな。そこはどうでもいいんだよ。彩花ならどうするかって話」
「そんなの、秘密の内容による。てか電子辞書まだ?」
「そう焦るな……あ」
見つけた。サイドワゴンの三段目から、電子辞書を取り出す。
「あった? じゃあ貸して」
「さっきの質問、答えてくれよ。
「はぁ? めんどいんだけど」
「頼むよ」
このとおり、と両手を合わせると、彩花は舌打ちをして「だる……」と
「どんな秘密? 恥ずかしいこと? それとも悪いこと?」
「えーと、人に言えないようなこと?」
「秘密は全部そうでしょ」
それもそうか。
「恥ずかしい秘密、になんのかな」
「じゃあ、それくらいみんなもやってるよ~とか適当に言ってあげればいいんじゃない? 自分一人じゃないって知ったら、安心するだろうし」
「うーん、今回のはかなり特殊だと思うから……それは通用しないかな」
「めんどくさいな~。じゃあお兄の秘密でも教えてあげたら? それでイーブンでしょ」
「そういう問題じゃ……いや、そういう問題なのか……?」
どうなんだろう、と考えていたら、電子辞書をひったくられた。
「もう十分でしょ。じゃ」
一方的に話を終わらせて、彩花は部屋から出ていった。
俺は立ったまま彩花の助言を
「秘密、ねえ……」
ちら、と本棚に目をやる。正確には、本棚の裏にあるものを。
──いや、でも……さすがにアレは……ううん……。
しばらく考えた末、俺は腹をくくることにする。正直、めちゃくちゃ
よし。アレを汐に見せよう。
そう決心したところで、机に置いていた携帯が震えた。電話だ。こんなときに誰だよ、と思いながら携帯を手に取る。発信者は
「うぉ」
驚いて変な声が出た。女子からの電話。めったにないことなのでパニックに陥る。ど、どうしよう? いやどうしようじゃないだろ。さっさと出ろバカ。動揺しながら俺は電話に出る。
「か、
『
電話越しでも、すっと耳に届く明るい声。胸が躍り、自然と口元が緩んでしまう。
「全然大丈夫。今、めちゃくちゃ暇だったから」
『そう? よかった~。実は紙木くんに教えてもらった本、読み終わってさ。メールの文章考えるの苦手だから、口で感想伝えようと思って電話かけたんだ』
「そ、そうか。メールでも電話でもなんでも──」
いいよ、と言うのと同時に隣から「ドン!」と壁を
また「うるさい」とか「死ね」とか言われたくないので、俺は急いで部屋を出た。階段を下り、勝手口からつっかけを履いて外に出る。ここでいいだろう。
『もしもし? 紙木くん聞こえてる?』
「ああ、悪い。ちょっと移動してた。部屋で電話すると妹が怒るんだよ」
『へ~紙木くん妹いたんだ! いいなぁ、私、一人っ子だから
「全然いいもんじゃないぞ。俺なんか毎日キモいとかウザいとか言われてるし」
『えー、そうなの?』
「ああ。物を投げられるときもある」
『ええー! それは大変だね……』
ちなみに投げてきたのはティッシュ箱だ。俺が間違って彩花のアイスを食べたことが原因だった。投げても壊れたり
『でも、やっぱ
たしかに、あんな妹でもいなくなったら寂しいかもしれない。
星原が誰とでもすぐ打ち解けて友達が多いのは、そういった寂しさの裏返しなのだろうか。
『あ、ちょっと湿っぽくなっちゃったね! 話戻そっか! 本の感想なんだけど──』
それから星原は、俺が薦めた『ハリモグラの夢』の感想を熱烈に語ってくれた。
やや難解な要素を含んでいるので、楽しめるかどうか少し不安だったが、星原は気に入ってくれたようだった。個々のシーンを挙げて、率直な感想を聞かせてくれた。
意外だったのは、星原が予想以上に読み込んでいたことだ。「あれって最初に出てきたネックレスだよね?」とか「あのセリフはおじいちゃんの受け売りなのかな」とか、細かい伏線もちゃんと認識していた。案外、長文を読むことには慣れているのかもしれない。
『また面白い本教えてよ! ちゃんと読むからさ』
「ああ、もちろんいいよ。リストにしてメールで送るよ」
『ありがとー! こんな話できるの紙木くんだけだよ~』
他意はないと分かっていても、そういうセリフはめちゃくちゃ
「俺はいつでも暇だから、好きなタイミングで電話なりメールなりしてくれよ。俺も、その、こんな話できるの
うわ。言ってる途中で恥ずかしくなってしまった。
『分かった! そうする!』
よかった。聞こえなかったみたいだ。スルーされたとは考えない。
安心したところで、夕方六時を告げるチャイムが遠くで鳴った。見上げると、暮れそめた空が赤く燃えている。
「じゃあ、またあとでメール送るから」
『うん。──あ、ちょっと待って』
「ん?」
『
脈絡のない話に意表を突かれる。
「ああ、一緒に帰ったけど……それが?」
『ちょっと気になって。紙木くん、ああいうこと今までしなかったと思うから』
「まぁ、そうだな。あのときは汐のことが心配で……それに、一応
『そうなの!?』
キンとした高い声に、思わず携帯から耳を離す。そこまで驚くことだろうか。
「昔は仲がよかったんだ。最近は全然
『そっか……紙木くん、友達思いだね』
「いや、そんなこと──」
『ううん、すごいと思う。私は……前まで汐くんとは普通に話してたけど、今はもうどう接すればいいのか分かんなくなっちゃった。汐くんとアリサが衝突してからは、話しかけていいのかも自信なくて……人間関係、難しいよ』
意外だった。星原の口からそんなセリフが出てくるなんて。
俺が知っている星原
「……どう接すればいいのか分からないのは、俺も同じだよ。でも、分からないから近寄らないっていうのは、楽だけど、そこで終わりだから……。それに、今のままだと落ち着かないし、俺はもう少し汐と関わってみようと思ってるよ」
ひと呼吸置いて、俺は続ける。
「なんて、友達少ない俺が何言ってんだって話だけどさ」
『……ううん。やっぱり、
「そ、そう?」
また褒められてしまった。素直に
『なんか胸が軽くなった気がする。ありがと紙木くん! 話せてよかった』
「や、こちらこそ。本の感想、聞けて嬉しかったよ」
『いえいえ~。じゃあ、メール待ってるから。またね!』
「ああ」
通話が切れる。
俺はその場で背伸びをする。夕暮れの空が
「さて」
部屋に戻ろう。また星原にオススメする小説をピックアップしなければ。
それと、
*
翌朝。いつもより早めに家を出た。からりと晴れた空のもとを自転車で駆け抜け、
汐に渡したいものがあった。だからこうして待っている。
この時間の昇降口は、穏やかな空気が漂っている。あと一〇分もすれば一気に生徒が流れ込んできて、辺りは騒々しくなるだろう。登校ラッシュの前に汐が来てほしいところだ。
しかし五分、一〇分と過ぎても汐は現れなかった。やがて登校ラッシュもピークを超える。
いつもならこの時間には、もう汐は教室にいた。陸上部を辞めたことで、生活リズムが変わったのだろうか。
「何やってんの?」
「わ」
急に話しかけられて驚いた。誰かと思ったら
「驚かせんなよ……汐を待ってるんだ」
「
「まぁな。けどなかなか来ないんだよ、寝坊かな」
「……
「来るのかなって、どういう意味だよ」
「だってほら、昨日、
「それは……」
反論しようとしたが、言葉が見つからなかった。
蓮見の言っていることも一理ある。というか、普通にあり得る話だ。昨日の神経をすり減らすような数々の出来事は、
「ま、あくまで俺の推測だから。槻ノ木のことなら
「そりゃあ、ぎりぎりまでは待つけど……」
不安になってきた。別に汐が来なくても困ることはないのだが、もし不登校にでもなったら後味が悪い。
電話でもかけてみたほうがいいのだろうか、などと考えていると、昇降口に
「紙木くんと蓮見くんだ。おはよ!」
朗らかな
「ああ、おはよう」
「おはよう星原さん」
星原は昇降口の壁にかけられた時計を見て「やば」と呟く。
「今日さ~数学の宿題やってなくて今から急いでやんなくちゃいけないんだよ~。だから、先に行くね。じゃ!」
どひゅん、と効果音が聞こえそうな勢いで星原は走りだした。その場にほんのり甘い香りが残る。数学は一時間目だ。今からやって間に合うのか……?
「じゃあ紙木、俺もそろそろ行くから」
「ああ、了解」
星原に続くように、蓮見も教室へと向かった。
壁の時計を見ると、HRの開始まで残り五分を切っていた。俺もそろそろ教室に行ったほうがいいかもしれない。汐には今すぐ渡さなきゃいけないものでもないし、最悪、家に届けるという選択肢もある。
仕方ない、待つのは
教室に足を向けようとした、そのとき。視界の端に、銀色の髪がちらついた。
ああ、
汐に向かって軽く手を挙げると、汐は少し驚いたように俺を見た。上履きに履き替え、こちらにやってくる。
「おはよう。誰か待ってるの?」
汐は少し元気がないように見えた。目の下に薄いクマができていて、声に張りがない。昨日の疲れが残っているのかもしれない。
「ああ、汐を待ってたんだ。ちょっと渡したいものがあって」
「ぼくに?」
「これは?」
「俺が中学のときに書いた自作小説だ」
小説? と汐は
「ええと……〈終末のヴァ」
「あー読み上げなくていい。早く鞄にしまって家で読んでくれ。いや、無理して読まなくていいけど」
「はぁ……?」
「歩きながら話そう。このままじゃ遅刻する」
言って、俺たちは早足で教室に向かう。
「なんで急に小説? 感想を聞きたいとか?」
「いや、絶対ひどいから感想はあんまり聞きたくないな……」
「じゃあ、なんで渡したんだよ」
「それ、ずっと秘密にしてたことなんだ」
「秘密って?」
「俺さ、今まで誰にも言ってなかったんだけど、一時期作家に
「昨日、汐は自分のこと話してくれただろ? それってたぶん、誰にも聞かせたくない話だったと思うんだ。だから、俺も人に言えない秘密を差し出すべきかと思って、小説のことを話した。これで、イーブンだ」
これ、一つも汐のためになってなくないか?
俺が小説を書いていたかどうかなんて汐にはどうでもいいだろうし、それが俺の秘密なんだよ、とか言っても、あっそう、って感じだろう。しかもよくよく考えたら、自分がゴミだと思っているものを人に渡して「これでイーブン」はおかしい。
やばい。ちょっと怖くなってきた。汐、怒ったりしないかな……?
そっと汐の顔を
「
「ええと……それ、褒めてるのか?」
「ああ。まさか昨日の帰り道で話したことが、咲馬にとって黒歴史の小説と同程度のものだったなんて、思わなかったよ」
「あ、いや、決してバカにしてるわけじゃ」
「分かってる。別に怒ってないよ。ただ、
そう言って、汐は少し笑った。
「ありがと。咲馬の小説、じっくり読ませてもらうよ」
「ああ、うん。じっくりは読まなくていいけど……」
結果オーライ、と考えていいのだろうか。たぶんいいはず。汐、笑ってたし。ちょっとでも元気を取り戻せたなら、それ以上言うことはない。俺の胸のつかえも、取れた気がする。
教室に着く。同時にチャイムが鳴って、俺と汐は慌てて自分の席に向かった。
クラスの状況は昨日と変わらなかった。
生徒たちは誰も汐に話しかけようとせず、汐は汐で孤独を貫いている。授業中、先生に当てられてようやく言葉を発するくらいで、汐は完全に気配を消して過ごしていた。
俺は何度か汐に声をかけようとして、だけど、一度も実行に移せたことはなかった。教室で汐に話しかけると、
別に無理して話しかける必要はない。だが一人ぼっちでいる汐をただ見ているだけというのは、どうも薄情な気がして落ち着かなかった。
そんなやきもきした気持ちを
机の上を片付けていると、
昨日あれだけ険悪なムードになっていたのに、また食事に誘うつもりなのだろうか。素直に感服した。さすが星原だ。ただ見ているだけの自分が情けなくなる。
星原は汐の前で足を止めて、昨日と同じように、弁当箱を掲げる。
「ね、よかったら一緒に──」
「
星原がおそるおそる振り向く。西園は数人の女子に囲まれて扉の前に立っていた。その中には
星原が汐に話しかける途中だと知ってか否か、西園は続けた。
「今日は食堂で食べようと思ってるんだけど。夏希も来るよね?」
平然としながら、有無を言わせない強い語調だった。
星原は困ったように西園と汐を交互に見やる。そんな星原を見かねてか、汐は無言で「行きなよ」というふうに、西園たちを軽く
星原が、弁当を握る手にぎゅっと力を入れたのが分かった。彼女は何かを振り切るように、勢いよく西園のほうを向く。
「わ、私は……教室で食べようかなー、なんて。えへへ」
明らかに無理して笑いながら、そう言った。
星原のささやかな反抗に、西園の
「あっそ。いいよ、好きにすれば」
そう言って、西園たちは教室から出ていった。
もっと突っかかるかと思ったが、意外とあっさり引き下がった。だがその潔い態度が、逆に恐ろしかった。星原もそう感じているのか、汐の対面に座りつつも、まだ緊張した様子でいる。
「いいの?」
と心配そうに汐が星原に声をかけた。それに星原は「全然大丈夫!」と明るい声で答えていたが、おそらく空元気だろう。二人が食事を始めてからも、星原は不安を隠しきれずにいた。
汐だけでなく、星原も西園と対立することになるかもしれない。もしそうなったら……俺は、何かすべきなのだろうか。そもそも、俺にできることなどあるのだろうか?
今日一日の授業が終わり、教室の空気が弛緩する。
俺は帰り支度をしながら、さりげなく汐に目をやる。すると汐もこちらを見て、視線がぶつかった。が、すぐ目を
──今日は一緒に帰らないのか。
残念なような、少しホッとしたような、複雑な気持ちになる。俺は大して中身の入っていない
昇降口に着くと、
「どうしたんだ?」
汐はこちらを見て、少し困ったような表情をした。
「いや、別に。何も」
「あ、そう」
「……じゃあ、帰る」
汐は背を向ける。なんなんだ一体──と疑問に思った瞬間、ハッとする。
もしかして、俺を待っていたのか?
「汐」
名前を呼ぶと、振り向いた。少しばかり気恥ずかしさを覚えながらも、俺は言葉を紡ぐ。
「……予定がないんなら、一緒に帰るか?」
汐は目を見開き、だが次の瞬間には何事もなかったように、こくりと
「うん、一緒に帰ろう」
……回りくどいというか、なんというか。汐が何を考えていたのかは分からないが、なんだか茶番じみたやり取りだった。ともかく、二人で下駄箱に向かう。
靴に履き替え、玄関扉を抜けたところで、背後から「待って!」と声がした。振り向くと、呼びかけたのは
星原は上履きのまま俺たちのもとにやってくると、おずおずと切り出した。
「えっとさ……私も、一緒に帰っていい?」
マジで! と声が出そうになる。あの星原と一緒に下校。こみ上げてくる
「も、もちろん。汐も、いいよな?」
「ああ。
ぱぁ、と星原は顔を輝かせた。感情がすぐ顔に出るので分かりやすい。
「じゃ、帰ろっか!」
そう言って星原は外に出てくる。上履きのまま。こういう抜けているところもめちゃくちゃ
昨日、汐と帰り道に使った田んぼ道を、今日は星原を加えた三人で歩く。横一列に並んで、星原を真ん中にした形だ。
星原は通学に自転車と電車の両方を使うタイプのようだ。家から学校の最寄り駅までは電車を使い、最寄り駅から学校までは自転車を使う。
「そういや、
星原の問いかけに、俺はうんうんと
「そうだな。たしか小学生の
と汐に確認する。
「いや、最初に知り合ったのは幼稚園だったと思う。よく遊ぶようになったのは、たしかに小学校に入ってからだね」
へええ、と星原は感心したような声を出した。
「じゃあもう一〇年以上の付き合いなんだ。二人は小学生のときどんなだったの?」
ざっくりした質問に、俺は記憶を掘り返しながら考える。
「うーん……俺は今とそんなに変わらないかなぁ。地味な感じの子だったような」
「え?」
そう声を上げたのは汐だ。信じられないような目で俺を見てくる。
「それはないでしょ。
「え、そんなんだっけ」
「ああ。いじめっ子と
「あー、そういやそんなことしてたな……」
懐かしいやら恥ずかしいやらだ。けど、いじめっ子との喧嘩はただの口喧嘩だし、屋上に侵入したのは単に
「咲馬は……変わったよ。変わらないところもあるけど」
神妙な顔で、汐はそんなことを言った。
星原は不思議そうに首を傾げて、質問を繰り返す。
「汐くんは、どんな小学生だったの?」
「ぼくは、それこそ咲馬が言ったように静かな子だったよ。気も
それは、俺も覚えている。昔の汐は今よりもっと大人しい性格をしていた。小学四年生か五年性くらいのときから、どんどん活発になっていったように思う。
「へ~今の汐くんからだと全然想像できないな」
汐は照れたように笑う。
「逆に想像できたら困るな。自分を変えたくて、いろいろ努力したからさ」
「そうなんだ……」
知らなかったな、と星原は
どうしてそんなふうに考えていたのだろう? そう考えたかったからだろうか。才能という言葉で一
「……ところで、昨日から少し気になってたことがあるんだけど」
突然、
少し間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「汐くんって、自分のことは〝ぼく〟呼びのままで行くの?」
俺はきょとんとしてしまう。
あまり気にしていなかったが、言われてみればたしかに疑問かもしれない。女子として学校生活を送る、という宣言どおり汐は女子の制服を着て登校しているが、一人称は〝ぼく〟のままだ。
疑問を投げかけられた汐は、苦虫を
「……やっぱ、中途半端?」
「あ、別に変えたほうがいいよって話じゃなくてさ! 汐くんにとって自然な呼び方をすればいいと思ってるだけで……」
星原が慌てて言葉を足すと、汐は緩く首を振って、柔らかい表情を作る。
「ほら、ぼくの声って
その分、見た目には気を使ったけどね、と汐はごまかすように笑う。
しかし星原は、心配そうに汐を見つめた。
「でも、汐くんと同じくらい声が低い女優さん、結構いるよ? だから変じゃないと思うけど……」
それに、と言って星原は続ける。
「汐くんは、どうしたいの?」
その問いに、汐はきまりが悪そうに
会話が途切れ、沈黙が降りる。
俺は星原と同じように汐が答えるのを待った。今の質問は、うやむやにしてはいけない気がしていた。
やがて汐は、観念したように口を割った。
「変えたい気持ちは、正直ちょっとだけあるよ。けど、まだ踏ん切りがつかない。急に何もかも変えてしまうのは……少し、怖いから」
「そっか……」
星原は静かに
汐の気持ちも分からなくもなかった。そりゃ怖いだろう。女子の制服で登校してくるだけでも、相当な覚悟を必要としたはずだ。そのうえ一人称まで変えるとなると、おそらく精神的なハードルはかなり高い。
ならどうすればいいだろう、と考えていたら、
「こうしよう! 私たち三人でいるときだけ
名案だよね、とでも言いたげに星原は顔を輝かせる。
別に異論はなかった。ただ、汐がどう思うかだが。
「じゃあ……できるだけ、そうしてみようかな」
控えめながらも、どこか
「いいねいいね~! それじゃさ、早速切り替えてこうよ!」
「えっ、今から?」
「うん!」
無邪気に頷く星原。さすがに急すぎないか? と思わなくもないが……果たして。
「わ、わた……」
汐はおそるおそる〝私〟と口にしようとする。星原は期待の
そして。
「──ごめん。やっぱり、まだ〝ぼく〟でいい」
「そ、そっか! いやこっちこそごめん! 無理
申し訳なさそうにする汐に、星原はあわあわしながら謝った。
「ま、ゆっくりでいいんじゃないか? 別に急ぐ必要もないんだし」
俺がフォローを入れると、星原は「うんうんそうだね」としきりに頷く。汐も同意するように口元を
いい感じに話がまとまったところで、星原が歩みを止める。
「それじゃあ私、駅はこっちだから」
田んぼ道を抜けてすぐのところだ。俺と汐が別れる
星原は俺たち二人を見やって、またにっこりと笑った。
「今日はいろいろ話せて楽しかった! 明日も一緒に帰ろうね」
俺は一瞬で気分が有頂天になる。明日も一緒に帰ろうね。なんていい言葉なんだ。
「ああ、俺も楽しかったよ」
「またね、
それじゃあばいばい! と元気に別れの
「ごめん忘れてた! 最後に一つだけ、ちょっとお願いがあって……」
お願い? 俺と
「その……汐くんじゃなくて、これからは汐ちゃんって呼んでいいかな?」
一瞬、汐は
「いいよ。好きに呼んでほしい」
「よかった~! じゃあ……汐ちゃん。はは、なんか新鮮! じゃあ、改めてばいばい、汐ちゃん、それに
今度こそ星原は、振り返らずに自分の帰路についた。
昨日、汐と二人で帰ったときの重い空気が
「じゃあ俺たちも帰るか」
俺は歩みを再開する。けど、なぜか汐はついて来なかった。
どうしたんだろう、と足を止めて、俺は振り返る。汐は立ち止まったまま俺を見ていた。
「
唐突にそんなことを
俺は改めて汐の姿を見た。
手ぐしで雑に
女子の制服でスカートを
「全然いいと思う」
「そっか……うん、分かった」
ごめん、それが訊きたかっただけ、と言って、汐は薄くはにかんだ。
それは
*
汐が女の子として学校に来るようになってから、三日目の朝。
外は晴れている。家を出る前に見た天気予報では、今日の降水確率は〇パーセントだとお天気キャスターが告げていた。自転車登校なので、雨は降らないほうが助かる。
学校に着いたのは、一時間目が始まる一〇分ほど前だった。立て続けに信号に捕まったせいで、いつもより少し遅い。
廊下を進んでいくと、2Aの教室の前に他クラスの生徒が何人か立っているのが見えた。彼らは教室の中を
なんだか胸騒ぎがした。俺は歩くペースを速めて、後方の扉から2Aの教室に入る。
室内にいるほとんどのクラスメイトが、教室の前方を見ていた。
俺も同じように、そちらに視線を動かす。
「な」
黒板に、でかでかと落書きがしてあった。
『槻ノ木汐は××』『ヘンタイ』『×××』『覗き魔』『×××××』
俺は言葉を失った。頭の奥がツンと冷たくなって、戸惑いで
──一体誰がこんな落書きを。
俺は教室を見渡す。すると泣きそうな顔をした
まだ教室に
俺は
教室の真ん中くらいまで来たところで、すっと机の下から足を出された。突然だったので
「いって……」
「ださ。ちゃんと足元見て歩けば?」
膝をついたまま、声の主を見上げる。
短いスカートに、脱色した髪。
足を出してきたのはお前だろ──という言葉が
一昨日の出来事がフラッシュバックする。昼休み。相対する二人。西園が汐に向けた、あの憎々しげな目。
立ち上がり、俺は西園を見下ろす。
「あの落書き、もしかして……」
「もしかして、何? 私がやったと思ってんの? 違うから。証拠もないくせに決めつけないでよ」
「じゃあ、なんでさっき足出したんだよ」
「伸ばしたかったから伸ばしただけ。そしたらあんたがつまずいたんでしょ。何必死になってんの」
あれが偶然であってたまるか。間違いなく
反論できずにいると、突然、西園は何か思いついたように
「ひょっとして、デキてんの?」
「は?」
「あんた昨日、
教室のどこかで小さな笑い声がした。こそこそした話し声が、不快な質感を伴って耳にこびりつく。
全身の血が頭に昇った。
「──そんなわけないだろ!」
気づけば大声を出していた。
一瞬、西園は顔を
そのまま互いに硬直していると、扉の前で誰かが動く気配がした。俺はついそちらに気を取られる。
そこに立っていたのは汐だった。
いつからいたのか、話を聞いていたのか。汐は無表情で教壇に上がると、黒板消しを握り、落書きを消し始めた。
俺は西園のもとを離れ、教壇に上がった。汐はこちらを見もせず、淡々と手を動かしている。心なし顔色が悪く、少し、震えていた。
「汐、手伝うよ」
「……いい」
「え?」
「手伝わなくていい。もう、話しかけないで」
俺は絶句した。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。
自分の席に戻ることも汐を手伝うこともできず、俺は教壇に突っ立ったまま、落書きが消されるのを見ていた。すべての落書きが消されると、汐は捨てるように黒板消しを置いて、席に着く。
やがてチャイムが鳴り、
伊予先生は教壇に立つ俺を見るなり、
「何かあったの?」
俺と汐を含め、黒板に落書きがあったことを先生に告げ口する生徒は一人もいなかった。
授業が始まっても先生の言葉は何一つ俺の頭に入ってこなかった。脳の表面を上滑りしていくように、記憶として
冷静になった今なら、
だから、別に嫌われたわけではない。真に受けなくて大丈夫。
そう、頑張って思い込むようにした。
「汐、今日の体育も見学してたな」「俺も女子の制服着てきたら出なくて済むかな?」「試しにやってみろよ」「冗談。ぜってえ
休み時間が訪れるたび、汐をネタに盛り上がるような会話が聞こえてきた。一昨日からそういった話は耳にしていたが、明らかに頻度が増えている。今朝の落書きを機に「汐をバカにしてもいい」という空気が
だがそんな状況でも、
星原が汐に寄り添うたびに、俺は妙な罪悪感に
このままじゃ、ダメだ。
……放課後だ。放課後になったら、汐を帰りに誘おう。落書きのことなんか忘れて、どうでもいい話で笑い合うのだ。きっと汐も、そう望んでいるはず。
しかし予想は裏切られた。
すべての授業が終わるなり、汐は誰よりも早く教室を出ていった。まるで声をかけられるのを避けているようだった。
それでも昨日みたいに昇降口で待っているかも。小さな期待を胸にあとを追いかけたが、昇降口に汐の姿はなく、下駄箱にはすでに上履きが入っていた。
「なんで行っちゃうんだよ……」
ひょっとして、俺といるのが本気で嫌になったのだろうか。そう考えると、悲しさと一緒に怒りが
もういい。一人で帰ろう。
そのまま靴に履き替えようとしたら、遅れて星原が小走りでやってきた。
「あ、あれ? 汐ちゃんは?」
本人がいないときでもそう呼ぶのか、と思いながら、俺は首を横に振る。
「もう先に帰ったよ。追いつけなかった」
「そんな……」
「今は誰とも話したくないんだろう。一人にしておこう」
「……うん」
星原はこちらを向いた。
「帰らないの?」
「え? あ、いや、帰るよ」
俺も同じように靴を履き、駐輪場へ向かう星原に続いた。そのまま二人でそれぞれの自転車を回収し、ハンドルを押しながら学校の敷地を出る。
照りつけるような
流されるままに下校を共にしているが、一緒に来てよかったのだろうか。そこが
「その、汐なら大丈夫だ。たぶん、俺たちと帰りたくなくて、先に行ったわけじゃない」
沈黙に耐えかね、話を切り出す。
「誰だって一人になりたいときくらいあるだろ? 今の汐がそれなんだ。だから明日になったら、また三人で一緒に帰れる」
星原は力なく
「そういや、この前の小テストどうだった? ほら、現代文の授業でやったやつ。俺、ちょっとだけ自信あってさ。やっぱ小説とか読んでると、国語力上がるよなー、なんて……」
今度は頷きもしない。
なんなんだよ、もう。なんか
家までの道のりが長く感じる。大体どうして歩きなんだ。自転車に乗れよ。無理だ。タイミングを逃した。今「自転車に乗ろう」と声をかけたら、早く帰りたいみたいに聞こえる。いや、実際そのとおりなのだが。
とにかくこの沈黙をどうにかしたくて次の話題を探していたら、隣から「ふすっ」と鼻をすする音が聞こえた。
隣を見て、ぎょっとした。星原は泣いていた。
「ちょ、な、どど、どうした? 大丈夫か?」
めちゃくちゃ
「ごめん……今朝のこと、考えちゃって」
「今朝のことって……あの落書きか?」
星原は
「私、学校に来てあの落書きを見たとき、何もできなかった。消さなきゃ、って思ったのに、勇気が出なくて……ただ見てるだけだった。
「それは……そうかもしれないけど。でも、星原はよくやってるよ。昼休みとか、汐と一緒に弁当食べてるし……」
「最初は、たしかに汐ちゃんのためだった。けど、今日のは違う」
「え?」
「昨日の昼休みから、アリサが口を利いてくれなくて……昼休みは汐ちゃんといないと、一人でご飯食べなきゃいけないの。だから、あれは自分のため」
そうだったのか。汐にばかり意識が向いていたせいで、気づかなかった。昨日から対立しそうな空気は感じていたが、無視されていたとは。ひどい話だ。
「……でも、やっぱ星原は立派だよ。普通、そこまで他人のために悲しめない。それだけ強く
「そう、かな」
「
俺はニッと笑ってみせる。すると星原も、ささやかながら
「……ありがと。
「星原ほどじゃないよ」
「めっちゃ褒めてくるね! なんか恥ずかしくなってきた」
ぱたぱたと手で顔を
俺は
と思っていたら、突然、星原は足を止めた。俺も立ち止まり、星原の顔を
「どうした?」
星原は紅潮した顔で、何かを訴えるように俺を見つめていた。
「……あの。紙木くんに、ちょっと相談したいことがあって」
「相談?」
ドクン、と心臓が大きく震える。
なぜだろう。少し、
「できれば、その……この話は、秘密にしておいてほしいんだけど」
「あ、ああ。分かった」
俺は
風が
「私、
と言った。嫌な予感が的中した。
「……好き、だった?」
「実はその、汐ちゃんが女の子の制服を着てくる日まで……かか、片思い、してまして」
顔を真っ赤にして星原は視線を下げる。頭の上に蒸気が見えそうだった。
「じゃあ、今はどうなんだ?」
「それが……分かんない」
「分からない? 分からないって……どういうこと?」
「ええと、その、何から言えば……」
言葉を探すように、星原の視線が右往左往する。口を開きかけたと思ったら、星原は急にめまいを起こしたみたいにふらついた。
「お、おい、大丈夫か?」
「ごめん、ちょっと、暑くて……」
よく見たら星原はうっすらと汗をかいていた。前髪が何本か
「場所、変えるか」
「うん……」
俺が自転車に
──片思い、か。
ため息を飲み込んで、俺はペダルを踏み込む。
一五分ほど自転車を漕げば、ファミレスなりファストフード店なりが
カランコロン、と音とともに店内に入り、俺たちは奥の席に座った。テーブルを挟んで向かい合い、とりあえず飲み物を注文する。
腰の曲がったおばあちゃんが、注文していたアイスコーヒーとオレンジジュースを運んでくる。星原はオレンジジュースを一気に半分ほど飲んで、ぷは、と息を
「落ち着いたか?」
声をかけると、星原は申し訳なさそうに笑った。
「あはは……ごめんね。ちょっとのぼせちゃった」
「いいよ。それより、さっきの話なんだけど……」
「うん。ちゃんと、話すね」
俺はアイスコーヒーにミルクとシロップを入れ、ストローでかき混ぜながら先を促す。
「男の子のときの話だから、今は
かろん、とアイスコーヒーの氷が音を立てる。
「そんなとき、汐くん──いや、汐ちゃんが、女の子として生きるってみんなの前で宣言して、私ね、正直、安心したの。これで諦められるって。でも、改めて汐ちゃんと話してみたら、なんか……なんかね……言いにくいんだけど」
俺はアイスコーヒーを
「すごく抱きしめたくなる、っていうか」
コーヒーが気管に入った。慌てて紙ナプキンを口に当てて、俺は激しく
「だ、大丈夫?」
「げほっ、えほっ、うゔんっ──ええと、ようするに、今でも好きってことか?」
「うーん、どうなんだろう……」
「抱きしめたくなるっていうのは、男として? それとも、女として?」
「わ、分かんないよ! だからこうやって相談してるの!」
怒られてしまった。
しかし、無茶な相談だ。どうして好きになった子の恋バナに付き合わなければいけないのか。でも、星原の頼みだ。まったく気は進まないが、ちょっと
俺は腕を組んで
抱きしめたい。能動的な欲求だ。どういうときに人は、誰かを抱きしめたくなるのだろう。欲情したとき? 星原にかぎってそれはない。と思いたい。他には、赤ちゃんとか小動物とか、そういう
「星原が抱いてる感情は、
「ひごよく……ぼせー……」
「つまり、
「それは……好き、とは違うものなの?」
「難しいこと言うなあ」
個人的には肯定したいところだ。星原のそれは善意から生まれた同情であって、恋慕とは別物だよ、と。そう言えば、星原は汐を恋愛対象から外すかもしれない。ライバルが、いなくなる。
けど、心の奥底に
「……好きかどうかを決めるのは、星原だよ」
星原は考え込むようにじっとテーブルを見つめてから、少しして「分かった」と答えた。
「じゃあ、もう少し考えてみる」
「それがいい。結論を急ぐと、ろくなことにならないからな」
我ながら実感のこもったセリフだった。
アイスコーヒーはまだ三分の一ほど残っている。もう少し、汐のことを掘り下げてみるか。
「どうして星原は、汐のことを好きになったんだ?」
「いろいろあるけど……優しいから、かな。特にきっかけとかはなくて、話してるうちに、なんだか
星原は顔を赤くして、口元を緩ませる。完全に乙女の表情だった。
しかし、走ってる姿、か。陸上部の練習を
「
昔から、というよりも、昔は、のほうが正しい。が、訂正するのも
「じゃあ、汐ちゃんのことも人一倍よく知ってるわけだ」
「それはどうだろうな。まぁ、小学生くらいのときは多少詳しかったかもしんないけど」
「詳しかったって、たとえば?」
「た、たとえば? そうだな……」
俺は腕を組んで、幼い
「……汐に『ロシア語
「へ~~~! そうなんだ……!」
ゴーン、と壁にかけられた古風な時計が鳴る。時刻はすでに六時だった。
「……そろそろ、帰るか」
星原は携帯を閉じて顔を上げる。
「うん、そうだね。相談、乗ってくれてありがとう」
「いいよ、別に」
「こんな話、
そう言って星原は「えへへ」と無邪気に笑った。
素直に喜んでいいのか分からなかった。
*
星原の相談を受けた翌日。その日は朝から雨が降っていた。
自転車登校の人間にとって雨は大敵だ。レインコートを着ると
今朝も、そんな感じだった。
生徒たちは昇降口の前に並んで、傘の雨粒を落としたり、レインコートを畳んだりしている。俺も端っこのほうで、レインコートをバッサバサして雨粒を払っていた。
すると前方に、傘をさして小走りで駆けてくる生徒が見えた。スカートを
あ、と俺は小さく声を
昨日の落書きや、星原の相談のことを思い出し、いろんな感情が胸に渦巻く。話しかけないほうがいいのか、
「お、おはよう」
ためらいがちに挨拶すると、汐はこちらを見て、驚いたような顔をした。俺だと気づかず隣に並んで来たらしい。
「さ、
ぎこちなくだが挨拶を返してくれた。せっかく居合わせたので、会話を続けてみる。
「今日は自転車じゃないのか?」
「うん。ちょっと……濡れたくなくて。送ってもらった」
「そうか。俺も雨の日は送ってもらいたいよ。湿気がほんと煩わしくてさ」
「……うん」
汐は手早く傘を畳んで、パチンと金具を止める。そのまま一人で昇降口に入ろうとしていたので、俺は「あのさ」と声をかけて引き止めた。
「今日、また三人で一緒に帰らないか?
汐はこちらを振り返る。
「帰りも、車だから」
「あ、そっか」
「……
急に名前を呼ばれる。何事かと身構えたら、汐は
「無理に話しかけなくていいよ。ぼくといて、勘違いされるの
一瞬、声が詰まる。少し遅れて、紙で切ったような鋭い痛みが胸に走った。
「そんなこと──」
「迷惑、かけたくないんだ」
そんなことない、と即答できなかった自分が恨めしかった。
今日一日、ずっとじめじめした居心地の悪い空気が漂っていた。湿度の問題だけではなく、
「せんせー、
体育館で、西園がそう声を上げたのが聞こえた。体育の先生は困り顔で「槻ノ木はいいんだよ」と答えていたが、なおも西園は「あれってサボりじゃないんですか」と食い下がっていた。悪意の
休み時間でも、西園は汐を
「てかさー、下着どっちの
「男子が女子の制服着てるのって校則違反にならないの? あれって風紀を乱してると思うんだけど」
「男同士がヤッてる漫画とかあるじゃん? ああいうの読んで興奮したりすんのかな。うへー、気持ちわる」
西園の発言に、最初は周りも苦笑いで
たぶん、本気で汐を嫌っているクラスメイトは西園一人だ。その他は、とりあえず汐をネタにすることで、気まずい空気を
ヤツらの気持ちも分からなくはない。誰だって気まずい空気になるのは
なお、
状況は緩やかに悪化している。
雨の日が続く。
西園の汐に対する行為はエスカレートしていた。声高に汐を
汐は黙って耐えていた。悪口は聞こえないよう振る舞い、物が落ちたら拾うだけ。西園はそんな汐を見て、あからさまにイライラしていた。
星原は昼休みになるたび汐を食事に誘っているが、汐への嫌がらせには無力だ。泣きそうな顔をするだけで、行動を起こすことはない。それでも、何もしない俺よりかは断然マシだ。
どうにかしれなければ、と思う。
このままだと教室に汐の居場所がなくなってしまう──そう
たとえ女子として生きるようになっても汐は汐だ。顔も頭も性格もいい、なんでもできちゃう優等生。今は大人しくしているだけで、この状況を打破する計画を密かに練っているかもしれない。そして俺や星原が考えもつかない方法で、また人気者の地位に復帰する……そういう可能性も、ゼロではないだろう。
希望的観測かもしれない。こんなふうに考えるようになったのは、一昨日の喫茶店で聞いた話のせいだ。星原が汐に好意を抱いているという事実が、俺の汐に対する同情を薄めている。
よくないな、と思う。でも、そう簡単には、割り切れない。
*
土日を挟んで月曜日。
その日、三時間目の体育が終わり、俺たち男子生徒は2Aの教室に戻ってきた。
四時間目のチャイムが鳴る。しかしまだ汐が戻ってきていなかった。さっきレポートを先生に提出してから体育館を出るところを見たが、どうしたのだろう。
汐より先に、中年の男性教諭が入室してくる。数学の先生だ。先生は教壇に上がると、
そこに立っていたのは汐だった。すでに着替えていて──と思ったが、違った。上は女子の制服に着替えているが、下はスカートではなく、ジャージのままだった。
汐は
「すいません、遅れました」
数学の先生は汐のジャージに視線を落とす。
汐はみんなの注目を浴びながら、早足で進み自分の席に座る。
何かあったのか?
授業中なので誰も口にはしないが、ほとんどのクラスメイトがそう思っているはずだ。
それで結局、誰も汐のジャージに触れないまま、数学の授業が終わる。
数学の先生が退室し、昼休みになった途端。疑問が噴出したように、教室がざわついた。
「どうしたんだろ」「何かこぼしたとか?」「誰か
様々な憶測や野次が飛び交うなか、汐は普段どおり、
そんなとき、突然教室のドアが「ガタン!」と音を立てて開いた。
意気揚々と教室に足を踏み入れたのは、
「これ、さっき見つけたんだけど誰か心当たりある?」
その時点で、たぶん、俺を含めクラスメイトの大半が真相を察した。
西園が掲げたものは、女子制服のスカートだった。
「このクラスの人だと思うんだけど、ちょっと名乗り出てくんない?」
おそらく、西園は体育の途中にトイレに行くとかなんとか言って体育館を抜け出し、汐が着替えに使っている多目的室に侵入したのだ。そして汐のスカートを盗み出した。始業前にでも多目的室に入って適当な窓の
誰でも少し考えたら分かることだ。しかし西園を弾劾する生徒は現れない。真相を問いただしたところで、のらりくらり
俺は
「……」
汐は耐えるように
「ねえ、これ、あんたのじゃないの?」
西園が教壇を下りて、汐の席に近づく。机の前で足を止めると、汐の顔を
「見て確認するくらいできるでしょ。ほら。こっち見なって」
脅すような物言いに、汐はゆっくりと顔を上げる。そして、
「そうだよ、ぼくの──」
「違うよね?」
冷たい
「だって汐、男だもん。スカートなんていらないよね」
そう言って西園はスカートを床に落とし、踏みつけた。靴底に
「ッ!」
汐が立ち上がる。
少し見下ろす形で、汐は怒りに染まった目で西園を
「何? 怒ってんの?」
「……その足を、どけてほしい」
「なんで?」
「そのスカートは……ぼくのだからだよ。ぼくが初めて手に入れた……女の子としての服で、とても、大切なものなんだ」
「どんだけスカートに固執してんの? 女子の格好したら、自分も女になれるとでも思ってるわけ?」
きっしょ、と西園は
「なれるわけないじゃん。家に鏡ないの? 大体どれだけ顔が整ってても、男と女でごまかしようがないとこがあるでしょ?」
汐は汚らしい言葉を耳にしたように顔をしかめ、口を閉ざす。
その反応が
「答えろよ! ついてんだろうが!」
そう叫び、あろうことか──汐のへそより一〇センチほど下の、太もものあいだ──ようするに
ぞわっ、と汐の髪が一斉に逆立つ。
「──やめろッ!」
大きな声を出して、汐は西園の
凍りつくような沈黙。殺人現場の事後のような、汐の荒い呼吸音だけが教室を支配していた。
汐の顔に、嫌悪と後悔の色が
西園は震えていた。激怒しているのか、泣いているのか。そのどちらでもなかった。垂れ下がった前髪に隠れた顔から、「あははっ」と無邪気な笑い声が
「なんだ、やればできんじゃん……そうだよ、さっきみたいな感じ! もっと男っぽいとこ見せてよ! 男なんだからさあ!」
「ち、違う……今のは……」
汐は信じられないように首を振りながら、悲痛な声を漏らす。やがてそこにいるのが耐えきれなくなったように床のスカートを拾い上げ、走って教室から飛び出した。
そこで俺はハッと我に返った。
俺は、何をしていた? 何もしていなかった。何もだ。すさまじい悪意に
全身が、一瞬で後悔に染まる。
もう遅いと分かっていながら、俺は椅子から立ち上がり、教室を出た。廊下の先に見えた汐の背中を、全力で追いかける。
走りながら悔いた。俺はどうしようもないクズだ。クズでバカ野郎だ。俺は
保身しか考えていない俺を、それでも汐は、巻き込まないよう気を使ってくれた。きっと誰よりも助けを求めていただろうに。俺はそんな汐の厚意を踏みにじった。
「クソ……!」
少し前の自分をぶん殴ってやりたい。
もう、同じ
階段を下り、廊下を進み、上履きのまま外に出て──体育館の裏に来たところで、ようやく汐は足を止めた。俺はぜえぜえと息を切らしながら、走りから歩みに変えて汐に近づく。我ながらよく陸上部のエースに追いつけたものだ。火事場のなんとやらだろうか。
体育館裏には誰もいない。校舎内のざわめきが、遠くで聞こえていた。
「汐」
声をかけると、汐はビクッと肩を揺らして振り返った。
汐は泣いていた。目からぼろぼろと涙をこぼしている。
じくじくと胸が痛む。汐のこんな顔は二度と見たくなかった。
「汐、ごめん……。何もできなくて、本当にごめん。俺、今まで自分のことしか考えてなくて、西園に
一歩、汐に近づく。
「もう目を逸らさない。俺にできることなら、なんだってやるよ。もう男とか女とか、関係ない。汐は、俺の大切な
言いながら、俺は顔が熱くなるのを感じていた。自分の誠実さに酔ったようなセリフだな、と
汐は「う~」と
「……それじゃ、ダメなんだよ……」
「ど、どうして」
否定されると思っていなかったので動揺する。
「だって……」
汐はなおもぼろぼろ涙を流しながら、真正面から俺を見つめて、
「だって、私は
そう、はっきりと言った。
一瞬、何を言われたのか理解できなくて、頭の中が真っ白になる。
遠ざかっていく背中を、俺はただ見ていた。仮に追いかけて、追いついても、言葉に詰まる気がしてならなかった。今もまだ混乱して、思考がまとまらなかった。
ただ一つ、理解していることは。
汐が口にしたあの「好き」は、きっと友達としての「好き」ではない。
*
その後、汐は早退した。
教室には、今までとはまた別種の気まずい空気が漂っていた。昼休みから明確に変わったのは、汐の話題を一度も耳にしなかったことだ。今までネタにしていた連中も、本人が不在だというのに誰も汐には触れなかった。
それは
やがて放課後が訪れる。
俺は帰り支度をして、教室を出た。
授業中、汐に言われたことをずっと考えていた。正直、今も混乱している。ちょっと前まで普通に男として接してきた
けど、今の汐は男ではない。かといって普通の女の子でもない。
汐のことは嫌いじゃない。女子の制服は似合っているし、見た目は普通に
あの告白に、俺はオーケーできない。
けど、ノーとも言えない。
だって、
はっきりと返答しないことが、
これからどんな顔して汐と話せばいいのだろう。鬼のように気が重いが、それでも、俺は汐と向き合わなければならない。もう目を
「しっかりしないと……」
自分を鼓舞するように
──しかしまぁ、なんというか。
俺は
リサイクルマークみたいな、
「げえ……」
結果、八台の自転車がドミノのように倒れた。
放っておくわけにもいかないので、一台ずつ他人の自転車を起こしていく。すると向こう側に、手伝ってくれる一人の女の子が現れた。
「よいしょ」
と声を出して、星原は自転車を起こす。
「ありがとう、助かるよ」
「いいよ。私の自転車も巻き込まれてるから」
「そ、そうか。ごめん」
謝りながら手を動かす。
最後の一台を起こしたところで、星原は
「その、一緒に帰ってもいいかな?」
これといった会話もなく、星原と田んぼ道を歩く。
こうして一緒に帰るのは三度目だ。さすがにもう緊張したり舞い上がったりはしないが、正直まだ慣れない。頻度の問題ではなく、星原の口数が少ないからそう感じるだけだろうか。
星原に元気がないのは、おそらく昼休みに起きた出来事のせいだ。
「……今日、汐ちゃん大変だったね」
やっぱり、そうだった。
視線を下げたまま、ぽつりと言葉を
「
「なんとか追いつけたよ。体育館裏で、少し話した」
「何を話したの?」
「
告白された、とは言えない。誰にでも
「そっか……ちゃんと、話せたんだ」
「ちゃんとって言うほどじゃないよ。正直、会話と呼べるかどうかも怪しい」
「……私ね、昼休みから思ってたんだけどね」
星原は少し間を置いてから、続ける。
「汐ちゃんに、謝ろうと思う。今まで見てるだけでごめん、って。それで、これからは周りのことなんか気にせず寄り添おうって……私、決めたの」
そう語る星原の目は、まっすぐ前を向いていた。
俺は
「俺も手伝うよ」
「ありがとう、
「教えてもらいたい場所?」
うん、と
「汐ちゃんの家、なんだけどさ」
俺と星原は住宅街の一角で足を止めた。
目の前には、二階建ての立派な住宅がある。ここが汐の家だ。
星原からは「汐の力になりたい」という強い意志を感じていたが、まさか今から会いに行くとは思わなかった。明日から行動しようと思っていた自分が恥ずかしい。
俺たちは家の前に自転車を
汐の家を訪問するのは何年ぶりだろう。少し緊張してきた。それに、汐に会ってもし告白の話を持ち出されたらと思うと、不安になってくる。今は星原がいるから、さすがに返事を催促してくるような
「じゃあ、インターホン鳴らすぞ」
「う、うん……!」
星原は俺以上に緊張しているようだった。顔は
「だ、大丈夫か?」
「あはは……ちょっとドキドキかも。男の子の家に行くの、初めてだし……あ、
「お、おう」
そんな必死に否定しなくても。ただ、分かっていたが、
扉の横にあるインターホンを鳴らすと、一〇秒もしないで向こうから『どちら様?』と女性の声が返ってきた。
「あ、汐──さんの友達で、
『……ちょっと待っててね』
プツ、とスピーカーが切れる。それから少し
家の中から顔を出したのは、黒髪の女性だ。歳は三〇代前半くらい。長身で細身なスタイルのおかげで、白いシャツにジーンズというラフな格好がすごく様になっていた。かなり美人だ。隣の星原も「はぇー」と小さく感嘆の息を
たぶん、この人が汐の新しい母親の
「お待たせしちゃってごめんね? あなた、
「あ、はい。そうです」
初対面のはずだが。汐から名前を聞いたのだろうか。
雪さんは愛想のいい
「アルバムで見たの。昔から汐と仲がよかったのよね? 気にかけてくれてありがとう」
「いえ、そんな……」
思わず目を
「ま、とりあえず入って」
俺と星原は会釈して、土間に足を踏み入れた。
人の家の
靴を脱いで
「二人にちょっと
俺と星原はちら、と一瞬だけ目を合わせる。とりあえず、
雪さんは少々ぎこちなく笑う。
「汐、学校でいじめられたり……してないよね?」
胃が鉛のように重くなる。
なんて答えればいいのだろう。事実を伝えるか、もちろんそんなことありませんよ、と答えるか。たぶん、
「
星原は前者を選んだ。言いづらいことを言わせてしまって申し訳ない気持ちになる。
もう嘘はつけないので、俺は星原に同意するように
「そっか~~~。やっぱあるかぁ、そういうの。うーん、難しいなぁ」
「で、でも! もうそんなことは絶対させないです。私と
「ほんとに?」
俺と星原は赤べこみたいにこくこく頷く。
雪さんは腕を組んで俺たちをじっと見つめたあと、薄く
「分かった。じゃあ、とりあえずは君たちに任せる。汐のこと、よろしくね」
はい、と俺と星原の声が重なる。
ささ、上がって上がって、と雪さんに言われて、今度こそ俺たちは
「そういや
「あ、はい。昔はよく」
「じゃあ、汐の部屋とかも知ってたりする?」
「えーと、たしか階段上がってすぐのところですよね」
「そうそう。もしかすると私よりこの家に詳しいかもね」
「いえ、そんな……」
反応に困ること言うな……と思っていたら、星原が横目で俺を見ていることに気がついた。どことなく
「あっ、引き止めちゃってごめんね。もう行って大丈夫だよ」
はい、と俺と星原は二度目の会釈をして、汐の部屋へ向かおうとする。
そのとき、背後で扉の開く音がした。
振り返ると、セーラー服に身を包んだ女の子がいた。色白でほっそりした
おかえり、と雪さんが声をかける。だが操ちゃんは
「……咲馬さん? うちに何か用ですか」
「ああ。ちょっと汐と話がしたくてさ。ていうか久しぶりだな」
「はぁ、そうですね」
ぞんざいな返事だった。あまり歓迎されていないらしい。
「ねえ、
ストレートで容赦ない物言いに、俺は仰天する。明らかに
妹が口を利いてくれない、と汐から聞いていたが、俺が思っている以上に、二人の仲は険悪なのかもしれない。
俺が戸惑っていると、
「そんなこと言っちゃダメでしょ。汐はもうお姉ちゃんで……」
「うるさいな。よそ者のくせに」
操ちゃんはそう吐き捨てて廊下の奥に姿を消す。その一言だけで、
あはは、と雪さんは困ったように笑う。
「見苦しいとこ見せちゃったね。ほら、早く行ってあげて。あんまり遅いと、汐が心配しちゃうからさ」
後ろ髪を引かれつつも、俺と
二階に着く。記憶どおりの場所に汐の部屋があった。一瞬、俺は小学生の
ドアをノックすると、「はい」と汐の声が返ってきたので、俺はドアを開けた。
「……いらっしゃい」
パーカーに短パン姿の汐が、ベッドに座ったまま出迎えの言葉を口にした。どこか
一瞬、昼休みに告白してきた汐の姿が、目の前の汐と重なる。動揺しそうになる気持ちに
「入るぞ」
「お、お邪魔します」
星原が緊張しながら俺に続く。
汐の部屋は昔とそこまで変わっていなかった。清潔でこざっぱりした部屋だ。本棚にはメジャーな少年漫画が並んでいるが、本の背が
「適当に座って」
学生
「下で何か話してた? ピンポン鳴ってから、来るまでやけに時間かかったけど」
星原はまだ緊張した様子なので、俺が答える。
「ああ。えっと……
「そっか。操と話したんだ」
汐はそれ以上何も言わず、どこを見るともなく
会話が途切れる。
俺は星原に目配せをする。言いたいことがあるんだろう、と伝えるように。すると星原は、こくりと
「えと、実はその、汐ちゃんに謝りたくて」
「謝る?」
「私……今日の昼休み、何もできなくてごめんなさい。
つっかえつっかえに
「
どこか
「たしかに、今日のはかなり
えっ、と
「このまま転校してさ。誰もぼくのことを知らない土地で、経歴を隠して女の子として生活する。そういうのもアリかな、って考えてた」
「そ、それはダメだよ!」
「どうして?」
するり、と
……なんか、距離近くない?
今にも、その、口づけでもするみたいな空気になっている。
星原は耳まで顔を赤くして、石みたいに固まっていた。緊張がこちらまで伝わってきて、俺はドキドキする。いや。ヒヤヒヤのほうが近いかもしれない。さすがに何もしないと思うが、見ていて不安になる。無理に引き
不意に、汐の視線が星原から外れて、俺と目が合う。すると汐は、急に残念そうな顔をして、星原から離れた。そのままテーブルを挟んで俺たちの向かい側に座る。
「ごめん夏希、冗談だよ。転校なんかしない。学校にも、ちゃんと行く」
「そそそそうだよね! よかったー、びっくりしたよ。あはは……」
俺はさりげなくホッとする。ああいうの、気が気じゃないのでやめてほしい。
コンコン、と部屋のドアがノックされる。汐が「はい」と答えると、
「これ、よかったら食べてね」
そう言って、人数分のりんごジュースとシュークリームをテーブルの上に置いた。こういった
雪さんが出ていくと、汐はシュークリームを手に取り、早速食べ始めた。
「二人も食べたら?」
「じゃあ、遠慮なく……」
「い、いただきます」
三人
最初に汐が食べ終わる。包み紙をゴミ箱に捨てたとき、俺はあることに気づく。
「汐、鼻にクリームついてるぞ」
「えっ」
「汐がそういうミスすんの珍しいな」
「う、うるさいな。これくらい、誰にでもあるよ」
汐はむすっとして俺を
俺は小さくなったシュークリームを口に放り込む。
「汐ちゃんの部屋、物少ないね」
それは俺も思っていたことだった。特に気にしなかったが、何か理由があるのだろうか。
汐は苦笑いを浮かべて
「よく言われる。昔から物欲が少なくて」
「へ~そうなんだ。私、なんでもすぐ欲しくなっちゃうから部屋にどんどん物が増えるんだよね。それでずーっとお母さんに部屋片付けなさい、って怒られんの」
「はは、
たしかに。言っちゃ悪いが、星原の部屋はちょっと散らかっているイメージがある。
などと考えていたら、突然、星原が「あ」と声を上げた。何かいいものでも見つけたのか、立ち上がって本棚に近寄る。
「これ、もしかして小学校のアルバム?」
そう言って、本棚の下段を指差した。そこには赤い装丁の本が差してある。星原の言うとおり、それは俺と汐の母校である、
「そうだよ。見る?」
「いいの!? 見る見る!」
星原はすぐさま卒業アルバムを引き抜き、テーブルの上に広げる。そしてぱらぱらとページを
「えーと、
はしゃぐ星原。紙面を
こうして見ると、幼い頃の汐は本当に女の子みたいだ。目が大きくて、男子にしては髪が長い。思えば、昔から汐はあまり髪を短くしなかった。
「汐はいつから女の子になりたいと思ってたんだ?」
何気なく頭をよぎった疑問を口にすると、汐は「さあ」と首を傾げた。
「いつからだろう。物心ついた
「ふうん、そういうもんか」
「でも、自分が周りと違うかも、って初めて自覚したのは、小三の頃だったと思う」
小学三年生、といえば、男女でコミュニティが分かれ始める頃合いだ。体育の際に男女別々で着替えるようになったのも、たしか三年生からだったと思う。
「クラスの学芸会でシンデレラをやることになって、みんなで配役を決めようとしてたんだ。王子様、シンデレラ、魔法使い、意地悪な姉妹……ぼくは、シンデレラをやりたくてさ。だから先生が、シンデレラをやりたい人、って言ったときに、手を挙げたんだ」
俺は黙って
「そしたら、先生に笑われちゃってね。
汐は続ける。
「それからは、ちゃんと男として振る舞おうと思ったんだ。笑われるのは
汐の、実のお母さん──俺たちが幼い頃から難病を患い、入院生活を送っていた。俺は何度か汐とお見舞いに行ったことがある。二人で学校での出来事を話すと、あの人は
汐は少しでもお母さんに負担をかけないよう、心の性を偽って誇らしい息子を演じていたのかもしれない。そこにどれほどの
「苦労、してたんだね」
星原が沈痛に
「まぁそこまで苦痛に感じてたわけでもないよ。男子に交じって
ただ、と言って、汐は顔を曇らせた。
「トイレと着替えが男と一緒なのは、嫌だったな……。特にあの、連れションとかいう文化」
ドキッとした。なぜなら何度か汐を連れションに誘ったことがあるからだ。小学校低学年の頃なので忘れているかもしれないが……念のため、謝っとこう。
「……すまん」
「あ、覚えてたんだ。いや、別に誰かが悪いわけじゃないからいいんだけどね」
汐も覚えていたようだ。あ、謝っといてよかった~……。
密かに胸を
「そういや、
続きを言いかけたところで、やっぱり口を
「ぼくが、何?」
「や、ごめん。なんでもない」
「途中でやめられたら気になるよ。言いなって」
このまま黙っていても変な禍根を残しそうだ。うっかり口を滑らしたことを後悔しながら、俺はこわごわと質問を繰り出す。
「その、汐って学校じゃトイレどうしてんのかなーって……」
汐が初めて女子として登校してきた日に、他のクラスメイトも同じことを訊ねていた。その質問に、当時の汐は明らかに困った表情を見せた。
今、目の前にいる汐も、やはり同じ反応をした。以前と違うのは、渋々ながらも答えようとしてくれているところだ。
「……行ってない」
「えっ?」
俺と
「そ、それって我慢してるってこと?」
「……うん、まぁ。一応、先生には教員用のトイレを使ってもいいって言われてるけど、申し訳なさみたいなのがあって……」
「だ、ダメだよちゃんと行かなきゃ。病気になっちゃう」
「それは分かってるんだけど……。別に、以前から学校のトイレはほとんど使わなかったし、そんなに困ってないよ」
「でも……」
星原は心配そうに
学校にいるあいだだけなら、トイレを我慢するのはそう難しくない。とはいえ健康にはよくないし、我慢できないときは必ずある。これは結構由々しき問題だ。しかし、トイレという非常にプライベートな領域に、俺がどこまで踏み込んでいいのか……。
どうしたもんかと頭を悩ませていたら、星原がおずおずと「じゃ、じゃあ」と切り出した。
「汐ちゃんが行きたくなったら、私、ついていこうか……?」
俺の脳内にでっかい「!?」が現れる。
無論ついていくと言ってもトイレの前までだろう。が、それでも今の発言は衝撃的だった。
しかし汐は大して驚くこともなく、
「いや、そんなホラー映画
と
「……でも、ありがとう。気を使ってくれるのは
「うん! そうしたほうがいいよ!」
おお。これで解決したことになる……のだろうか。いや、そんな単純な問題でもないだろう。だが少しでも汐の負担を減らすことができたら、俺も質問した甲斐があったというものだ。
俺は残っていたりんごジュースを飲み干す。壁の時計を見ると、もう五時を回っていた。
「そろそろ帰るか」
そう提案すると、星原はちょっと
「玄関まで送るよ」
俺と星原は立ち上がり、荷物を持って部屋を出る。階段を下り、玄関で靴を履いた。
星原が真剣な顔をして、訴えかけるような視線を汐に向ける。
「明日、学校に来てね。また、三人で一緒に帰ろうね」
汐は微笑み、小さく「うん」と
「それじゃあ、また明日な」
俺は別れの
外はまだ明るかった。太陽は自身の存在を主張するかのように、激しく
「はー、行ってよかったぁ」
一仕事終えたみたいに、星原が吐息混じりにそう言った。
「だな。ちょっと落ち込んでるみたいだったけど、あの調子なら明日も来てくれそうだ」
「うん。明日から頑張らなきゃ。アリサに、ガツンと言ってやらないと……!」
その名前を聞いて、苦々しい感情が胸に広がる。
「
「そうだね……アリサ、リーダーっていうかボスみたいな存在だから。アリサを説得できたら教室の空気もよくなると思うけど、いろいろ強いからね」
強い。たしかにそのとおりだ。西園はあれでなかなか弁が立つ。ヤツを言い負かすのは簡単なことではない。
「なんか、弱点とかないのか?」
「アリサの? うーん、
「それ聞いてどうすんだ……もっと他に、弱みとか」
「弱み……」
星原は難しそうな顔で
「……アリサ、
たっぷり間を置いて発せられた言葉に、俺は虚を突かれる。完全に初耳だった。
「だから、なんとかして汐ちゃんを男の子に戻そうとして、あんな意地悪してるのかも……」
まさかそんな幼稚な理由で、と思ったが、一概に否定できる話でもなかった。
好きな異性が性別を変えて生きる。そんな状況に直面したら、誰だってショックを受ける。好きになるのを
けど、西園がやっていることは度を越している。失恋したからといって、許されることではない。
「たしかに、それは弱みかもな。利用する気はあんまり起きないけど……」
「私も。なんか、口にするのはやだよね……」
西園がどれだけひどいヤツでも、人の恋心を反撃の材料にはしたくはない。さっきの話は、頭の片隅に
俺たちは、T字路に突き当たった。
「じゃあ、俺はこっちだから」
「うん。それじゃあ、また明日」
また明日、と返して、俺は自転車に
一〇メートルほど進んだところで、ポケットに入れていた携帯が震えた。メールだ。俺は自転車を止めて、携帯を取り出す。
俺は携帯の画面を開く。
『ごめん。ちょっと伝えたいことがあるから、家に戻ってきてくれない?』
差出人は汐だった。
正直、汐の家に戻るのはかなり気が重かった。
メールの文面にある「伝えたいこと」が、昼休みの告白に関係しているとしか思えなかった。俺はまだ、あの告白にちゃんとした返答を用意していない。もし返事を催促されたらどうしよう。考えるだけで胃痛がする。でもメールを見てしまったからには、もう無視できない。
俺は『分かった』とだけ返信して、Uターンする。ゆっくりと自転車を漕ぎながら、どうやって返事を先送りにするかばかり考えていた。だが一向に答えは出てこず、なんの準備もできないまま、汐の家に着いてしまう。
「どうすっかな……」
自転車を
「あれ、
「ちょっと、
「へえ、そうなの。汐、部屋にいるから入っていいよ」
はいどうぞ、と雪さんは扉を開けたままにしてくれた。ここまで来たらもう引けない。俺は雪さんに会釈して、家の中に足を踏み入れた。
靴を脱ぎ、階段を上がる。汐の部屋の前で一度大きく深呼吸し、扉をノックした。汐の返事が聞こえたので、俺は部屋に入る。
「急に呼び戻してごめん」
汐は、俺と
「いいよ。それより……伝えたいことって?」
俺は平静を装って
汐は何も言わず、俺のことをまじまじと見つめる。と思ったら、突然ふっと鼻で笑って「座れば?」と提案してきた。
「え、ああ、そうだな」
鞄を置いてカーペットの上に正座すると、汐は
「咲馬、緊張しすぎ。別に困らせるわけじゃないから、楽にしてよ」
「そ、そうか……?」
たしかに正座はおかしかったな、と思って足を崩す。汐はベッドから立ち上がり、勉強机の引き出しを開けた。そして俺に背中を向けたまま、
「読んだよ、小説」
「え?」
「咲馬が書いたやつ」
少し遅れて、言われたことを理解する。そういや汐には、俺の自作小説を渡していたんだった。告白のことで頭がいっぱいで忘れていた。
汐は引き出しから俺の自作小説を取り出すと、それをこちらに渡した。束になった原稿用紙の重みが俺の両手にかかる。
汐はキャスター付きのチェアに座り、少し照れくさそうに
「感想、言ったほうがいいと思って」
「それで呼び戻したのか?」
汐は
内心、ホッとした。告白の件だったらどうしようかと。
安心したら、別の感情がこみ上げてきた。このむず
「そうか、読んだんだな……じゃあ、その、どうだった……?」
ドキドキしながら
「なんていうか……よくこんなに文章が書けるなと思ったよ。ぼくは、今まで多くても原稿用紙五、六枚くらいしか埋められなかったから。ただ、内容に関しては……」
汐は俺のほうを
「ちょっと、合わなかったかも……」
「そ、そうか、合わなかったか……ちなみに、どのへんが?」
顔が引きつりそうになるのを抑えて、俺は訊ねた。
「……まず、
それから汐は、数分に
俺は途中から話を聞いていなかった。というか、聞いていられなかった。そりゃあ自分でも
「──こんな感じだけど……
「え、ああ、すまん。ちょっと、凹んでた……」
えっ、と汐が慌てたように声を上げる。
「ご、ごめん。言い過ぎた。あくまで素人の感想だから、全然気にしなくていいよ」
「いや、いいんだ。気を使って褒められても
本当は今にも心が折れそうだが、それを言ったところでどうにもならない。
汐は何か言いたげに、俺の
なんだか気まずい雰囲気になってしまった。まぁ告白の返事を催促されるよりマシだと考えるべきか。これ以上空気が悪くなる前に帰ろう。
俺は燃えるゴミ──もとい自作小説を
「痛っ」
人差し指の先に鋭い痛みが走った。思わず右手を引っ込め指先を見てみると、赤いビーズのように血が
「どうかした?」
と言って
「紙で切っちゃって。別に、ティッシュで
「……ちょっと待ってて」
汐は立ち上がると、勉強机の棚から
「おお……サンキュ」
ティッシュで軽く血を
そばに座り、
「よし、できた」
満足のいく仕事をしたように、汐はうんと
「なんか、女子っぽいな」
何気なくそう言った。
汐は目を丸くする。
その反応に、あれ、なんかまずいこと言っちゃっただろうか、と不安になる。「っぽい」がよくなかったのかもしれない。いや、たぶんそうだ。女子として接するべきなんだから「っぽい」はいらなかった。そもそも絆創膏を
「今のは、えっと──」
慌てて弁解しようとしたところで、俺は汐の変化に気づく。
汐は視線をやや下向きに
これは……どういう反応なんだろう?
怒っているようにも笑うのを我慢しているようにも見える。どうした、と一声かければ明らかになるだろうが、もし汐が怒っていたらと思うと、気安く問いかけるのはためらわれた。
判別がつかないまま
「……あ、ありがとう……?」
なんで疑問形、と思ったのと同時に、俺は理解する。
これは、照れているのだ。女子っぽいと言われて。
汐を怒らせたわけではないことに安心する──はずなのだが、妙に胸がざわついた。
いくつもの感情が胸の奥でもつれ合っている感じがする。快とも不快ともいえない、奇妙な感覚。単純にお礼を言われて
なんだろう、この、風が通り抜けていくような
──落胆?
俺は、残念がっているのだろうか? だとしたら、一体何に?
不意に、ガチャリ、と玄関扉の開く音がした。出かけていた
「……そろそろ、帰るよ」
汐にそう言って、俺は今度こそ指を切らないように原稿を
「ん、ああ、分かった」
汐も腰を上げる。俺と目線が合う
「小説、またできたら読ませてよ。どんな内容でも読むからさ」
「ああ、分かった。書くかどうか分かんないけど……次は酷評されないようにするよ」
冗談ぽく言うと、汐も砕けた表情で「悪かったって」と答えた。
別れを告げて、俺は階段を下りる。靴を履いて外に出た途端、むわっとした熱気に包まれた。日は傾き、西の空は夕焼けのグラデーションを描いている。
俺は自転車に
風を切りながら、汐の部屋で抱いた感情を掘り下げる。すると
つまり俺は、残念がっていたのだ。
汐が本当に女の子ならよかったのに──そう考えてしまった。
顔も性格もいい
心の中で嘆く。どうして神様は、男の身体に汐の心を割り当てたのだろう。心と性別さえ合っていたら、誰も悩まずに済んだのに。それとも、病気みたいなものだと思って、
汐が正真正銘の女の子なら、俺だって……なんて、考えても仕方がないけど。
サドルから腰を浮かせ、ペダルを強く踏み込んだ。
*
その夜、夢を見た。
俺が風邪で寝込んでいたら、汐が看病しに来てくれた。夢の中で汐は普通の女の子だった。近づくとなんだかいい
「ねえ、
俺が横になっているベッドに、汐は腰を下ろす。汐の顔には、甘ったるい
「──私のこと、ちゃんと見て」
そう言って、
そこで、目が覚めた。
「……はぁ~」
ため息しか出なかった。
夢で安心しているのか、それとも残念に思っているのか。自分でも分からない。ただ、心臓の高鳴りは今も続いていた。あんな夢を見るなんて……どうかしている。
ベッドから背中を引き
俺はベッドから立ち上がる。
学校へ行く準備をしよう。
夏の気配が濃くなっている。
日に日に強さを増す朝のAの教室に入った。
俺は真っ先に汐の席に目をやる。汐はすでに着席していた。一時間目の英語の教科書とノートを机に並べ、退屈そうに携帯を触っている。視線を横にずらすと、
俺は自分を勇み立たせるように腹筋を締め、汐の席に向かう。
汐がこちらに気づくと、俺はできるだけ自然に、かつ教室にちゃんと響き渡るくらいはっきりした声で、
「おはよう、汐」
と
西園を含めた、数人のクラスメイトが俺たちに注目する。教室の空気にほとんど変化はない。だが、少なくともこちらを見た生徒たちには、俺の汐に対する味方意識を見せつけられたと思う。今はそれでいい。
汐は口元を緩ませて、「おはよう」と挨拶を返してくれた。
一瞬、夢で見た女の子の汐が頭をよぎり、俺は思わず汐の胸元を確認した。そこにはなんの膨らみもない。当たり前だ。何をやっているのだ、俺は。
「
小首を傾げる
「すまん、なんでもない。昨日はちゃんと休めたか?」
「うん。九時間くらい爆睡してたよ」
「そっか。それだけ寝たら、授業中に昼寝せずに済むな」
「寝不足でもしないよ。
ふふ、と汐が控えめに笑う。
そのとき、胸に妙なむず
「ちょ、ちょっと
「ん、分かった」
俺は汐の横を通り過ぎて、最後尾にある自分の席に鞄を下ろす。
胸のむず痒さはすぐに治まった。一体なんだったのだろう。ほんの少しだけ、
俺は席に着く。鞄から筆箱や教科書を机に移していると、星原が教室に入ってきた。彼女は汐を見つけるなり、
「汐ちゃんおはよう!」
そう大きな声で
星原は少しばかり緊張している様子だった。目には少々
汐が挨拶を返すと、星原は汐の席に近寄り「最近暑くなってきたね」と話しかけた。それから二人は談笑を始める。
星原は、昨日の帰り道に宣言したことをちゃんと実行している。俺も口だけではないことを証明しなければ。そう思いながら、二人に交ざろうと汐の席に向かった。
途中、こちらを
それから休み時間が来るたび、俺と星原は汐に話しかけた。
別に話の内容はなんでもよかった。重要なのは汐を孤立させないことだ。汐が西園にちょっかいをかけられないよう、できるだけ俺たちは汐に付き添った。そのあいだにも、何度か西園が俺たちの悪口を
西園は目に見えて不機嫌そうにしていた。最初は俺たちに無視されても舌打ちをする程度だったが、次第に周りのクラスメイトに八つ当たりするようになった。やれジュースを買ってこいだの、やれお前の話は面白くないだの。おそらくその影響で、クラス内の風向きが少しずつ変わり始めていた。
あれは三時間目終わりの休み時間のことだ。
俺が便所で用を済ませ、手を洗っていると、クラスメイトの男子二人が
「あいつさ、ちょっとやりすぎだよな」
あいつ、に該当する人物は一人しか思い当たらなかった。俺は手を洗いながら、二人の話に耳を傾けた。
「あー、
「な。もうほっときゃいいのに。なんつうか、ダサい」
「もしかして、
「あ、
二人が笑い合うと、まるでそれがオチだったかのように違う話題へ移った。
俺は彼らの会話から、西園に対する批判的な空気が形成されつつあるのを感じた。この二人の他にも、西園に反感を覚え始めたクラスメイトはいるだろう。
素直に喜べないが、悪くない流れだった。西園が多数のクラスメイトから不興を買えば、汐への
四時間目が終わり、昼休みに入る。
俺は自分の机に弁当を広げる。すると、いつものように
「昼休みは槻ノ木と
「ああ。ずっと三人一緒にいてもそんな話することないし。それに、昼休みまで汐と一緒にいたら、蓮見が一人で弁当食べることになっちゃうだろ」
我ながらなんていいクラスメイトなんだろう。と心の中で自画自賛していたら、蓮見は顔を引きつらせた。
「いや、普通に他の友達と一緒に食べるけど……」
「あ、そう……」
心配して損した。
蓮見は弁当を広げて食事を始める。白米を口に運びながら「ところで」と切り出した。
「今日はまたずいぶん槻ノ木に親身だな。やっぱり昨日の西園が原因?」
「まぁ、そんな感じだ。他にもいろいろあるけど、心配になってきて」
「ふうん。ちょっと前まで苦手とか言ってたのが信じられないな」
「事情が変わったんだよ、事情が」
本当に、変わりすぎだと思う。今まで男として接してきた
今後どうなることやら……と思いながら、
カシャン、と何かが落ちる音がした。
「あっ、アリサ!」
俺は
「今のは……ひ、ひどいって。そんなことしなくても……」
震える声で訴える星原。一方で汐は悔しそうな
状況を把握しようと俺は背を伸ばす。すると西園の足元にひっくり返った弁当箱を見つけた。あれはたしか、汐のものだ。
「別に、わざとじゃないし。ちょっとぶつかっただけでしょ」
そのやり取りだけで、俺は西園がしたことの想像がついた。
おそらく、汐の弁当をわざと落としたのだ。机のそばを通る際に、手を引っかけるなりして。星原の反応からして、そうとしか考えられない。
じわ、と頭が熱を持つ。怒らなければ、と思った。強い言葉をぶつけて、西園を謝らせるべきだ。昨日決意したように、俺にできることを今すぐやる──でも、もし本当に西園がわざとじゃなかったら? そもそも俺が怒って事態が好転するのか? 状況をややこしくするだけではないのか? そんな数々の不確定要素が、
「ていうか
不機嫌さを
「なんでって……私は、汐ちゃんの友達だから」
「汐ちゃんて!」
あっはは、と西園はバカにするように
「バカじゃないの。いくら周りが女の子扱いして本人がそう思い込もうとしても、汐が男なのは変わんないから。それとも手術でも受けんの? 切り落としたりするわけ? そこまでやってないってことは、結局お遊びなんでしょ?」
「お遊びじゃない」
汐が顔を上げ、悲痛な表情で西園を
「そういうのは……アリサが思ってるほど簡単にできることじゃないんだよ」
「あっそ、別にどうでもいいけど。てか
西園は醜悪な
「汐だって男なんだから、あんま気を許したらすぐヤラれちゃうよ」
「なっ」
性的なニュアンスを含む言葉に、星原が顔を赤くした。
西園の発言は二人に対する明確な侮辱で、汐の生き方を真っ向から否定するものだ。少し前まで仲よくやっていた相手に、どうしてそんな言葉を吐けるのか。
腹の奥からこみ上げてきた怒りが、
「──いい加減にしろ」
やっと、声を出せた。
西園がこちらを振り返り、敵意をむき出しにした視線を俺に向ける。
「何? 私に言ったの? 声ちっちゃくて聞こえなかったんだけど」
俺は
「いい加減にしろって言ったんだよ。二人がなんか迷惑でもかけたか? ただ自分が受け入れられないからって、突っかかるな」
「はぁ? あんたには関係ないでしょ。てか迷惑ならかけられてんだけど? 汐のせいで、教室の空気が悪くなってんの分かるでしょ。それで本人は、特別な自分のこと認めてください~って被害者面しちゃってさ。ほんっとムカついてる」
「お前がそう思ってるだけだろうが。汐は何もしてない。普通に学校生活を送ろうとしてるだけだ」
「その普通が私らにとって迷惑だっつってんの。聞きたくもない性癖を一方的に聞かされて、いざ私が自分の意見を言ったら、突っかかるなって、何それ。勝手すぎでしょ。なんも言われたくないんならずっと黙ってりゃよかったんだよ。つーか、受け入れろって言うんなら不快な気持ちになってる私のこともちゃんと受け入れろよ。なんで汐だけ特別扱いするわけ? そんなの差別でしょ」
「お前がそれを言うなよ。大体、何が意見だよ。お前のはただの悪口だろうが。理解できないものを攻撃して私のことも受け入れてって、バカじゃねえの」
ピシ、と西園からガラスにヒビが入るような音が聞こえた、気がした。
「あんた、やっぱ汐のことが好きなんでしょ」
「は? 何言って──」
「だから必死になってんでしょ。大好きな
頭の中からプツプツと音が聞こえる。ダメだ。ここで怒ったら
怒りを押し殺して、俺は鼻で笑ってみせる。
「言い負かされそうになったからって、ガキみたいなこと言うなよ。今それ関係ないだろ」
「じゃあはっきり言えば? 汐のことどう思ってるか」
「だから──」
「ごまかさず、答えろよ」
ああ、クソ。びっくりするくらい
気づけばクラスメイト全員が黙って俺の返答を待っていた。
好きなんかじゃない、そう答えるのが無難だろう。だがその選択は汐の告白にノーを突きつけることになる。西園に強く出られても、汐を傷つけてしまう。なら好きと答えたら──って違う。周りの反応で返答を決めようとするな。俺自身がどう思っているかだろう。
自分の気持ちを、正直に伝えるしかない。
「ほら、早く答えろよ」
「……ねえよ」
「あ? なんて?」
「分かんねえよ、好きかどうかなんて!」
怒鳴りつけるように俺は言った。
「見た目は
「何それ? はっきりしろよ」
「分からないもんは分からないんだから仕方ないだろ! なんでもかんでも好きか嫌いかだけで語れると思うな。大体、汐が好きだのなんだの言う、お前のほうはどうなんだよ!」
言ってから、後悔した。つい口にしてしまったが、今のは
西園の顔が怒りに染まる。悔しそうに奥歯を
まさか、と思った直後、西園はそれを大きく振りかぶり、
「それはダメだよ、アリサ」
俺に投げつけようとしたが、汐が西園の二の腕を
「離せ! キモいんだよ!」
西園が暴れる。だが汐の手は振りほどけない。筋力の差が悲しいほどにはっきりと表れていた。それでも西園は
水筒が、
「っつう……」
たまらず汐は手を離し、うずくまった。鼻の先からボタボタと結構な量の血が
「だ、大丈夫!?」
「今のは、わざとじゃなくて……」
小声で釈明するが、その言葉に
孤立無援となった西園はようやく自分の
「ちょっと、どうしたの?」
静まり返った教室に高い声が響いた。
教室の出入り口に目をやると、そこに
「
どうやら誰かが騒ぎを報告したらしい。うちのクラスメイトなのか他クラスの生徒なのかは分からないが、少々タイミングが悪い。せめてもう少し早く来てくれていたら、と思わずにはいられなかった。
伊予先生は教室に足を踏み入れ、うずくまる汐を見つけると、ハッと目を見開いた。
「……何があったの?」
「西園さんが、
伊予先生の近くにいた女子が、そう告げ口した。西園の取り巻きだった生徒の一人だ。その女子の裏切るような発言に、西園はショックを受けたように口を震わせる。
「ちがっ、私は……」
伊予先生は西園を
「汐、どうなの?」
汐は星原から借りたハンカチを鼻に当てたまま、首を横に振った。
「……偶然、当たっただけです」
その気になれば西園に責任を負わせることもできただろう。だが汐はそうしなかった。この
汐は、西園に好意を寄せられていたことを知っていたのではないだろうか。だから、西園に黙ったまま生き方を変えるほどの決断──つまり男を辞めたことに、罪悪感を覚えていた。そう考えると、今までどれだけ悪口を
この推論が正しいとはかぎらないが、俺はやるせなくなった。ただ正直に生きようとしているだけで、どうして
「汐、この弁当箱は何? これも、偶然落ちたの?」
その弁当箱はほぼ間違いなく、
汐は少し迷ってから、こくりと
すると伊予先生は、静かに立ち上がった。
「……誰か、
「や、私は……」
「いいから来なさい!」
鋭い怒声に西園はビクッと肩を震わせる。俺も少し驚いた。伊予先生がこれほど怒った姿は今まで見たことがなかった。
伊予先生は教室から出ていく。そのあとを西園は、
「保健室、行こう」
当事者の人間が去り、教室の空気は次第に緩んでいく。これで一件落着、なのだろうか。俺はなんだか置いてけぼりを食らったような気分だった。
三人がいた場所には、ひっくり返った弁当箱が取り残されている。誰にも見向きされないその弁当箱に妙なシンパシーを感じて、俺は後処理を引き受けることにした。
その後、保健室から戻ってきた汐は、通常どおり五時間目から授業に参加していた。もちろん鼻血は止まっている。鼻栓をしたりガーゼを
一方で西園は、教室に戻ってこなかった。
放課後になると、クラスメイトの一人が「アリサ、謹慎になったんだって」と吹聴して回っていた。その子が言うには、昨日の時点である生徒が西園の悪行を伊予先生に知らせていたらしい。そこに今日の騒ぎがあり、処罰が下された……とのことだった。
事実かどうかはともかく、納得できる話だった。西園には同情しないが、責める気にもなれない。どうかこの機に改心してほしいところだ。
俺は帰り支度をする。そのとき、四、五人の男子が顔を寄せ合ってこそこそと相談事をしているのが見えた。彼らは時おり
やがて連中は、
「よう汐。いろいろ大変だったな。鼻、曲がんなかったか?」
俺以外の男子が汐に直接話しかけるのは珍しい。汐は驚いた表情を見せたが、すぐ警戒心を
「平気、だけど」
「そう身構えんなよ。このあと予定ないんだったら、一緒にマック行かね?」
汐が目を丸くする。意外な誘いかけに、俺も少し驚いた。
歌島は気恥ずかしそうに頭をかく。
「よくよく考えたら俺たち汐のこと全然知らなかったなーって思ってさ。だから、えーと、ほら、ポテトでも食いながら話そうぜ。無理にとは言わんけど」
こ、これは……汐への歩み寄りだ。分からないから理解しようとする、健全なコミュニケーション。俺は胸が熱くなった。
汐は
「……ごめん、すでに先約があるから。でも誘ってくれてありがとう」
「ん、いいよ。じゃあ、また今度な」
そう言うと、歌島たちは帰っていった。
汐は
「帰ろうか」と声をかけてきた汐に、俺は「ああ」と
俺たちのことを奇異の目で見てくる
三人揃って帰るのは、ずいぶん久しぶりな気がした。自転車のチェーンが回る音が、心なし軽やかに聞こえる。
「今月乗り切ったらいよいよ夏休みだね~! 楽しみ!」
ここ数日、気分が沈みがちだった星原だが、今は照りつける太陽にも負けないくらい元気だった。顔には
「だな。あとは定期考査さえなんとかなれば……」
俺が不安の声を
「どうしよう、全然勉強してない! やば~赤点取ったら補習で夏休みが減っちゃう……」
「俺も全然してないから大丈夫だ」
「今までそう言ってきた人はみんな私より順位上だったよ」
そんな俺たちを見て、
「あ、そういえば汐ちゃん、鼻、もう大丈夫? すっごく血が出てたから、私めちゃくちゃ焦ったよ」
「これくらい平気だよ。押さえるとちょっと痛むけど、骨は問題ないみたいだし」
「ほんと? 早く治してね……」
汐は照れくさそうに
ふと思ったが、汐はあれだけ
「あのさ、ちょっと二人に言いたいことがあるんだけど」
突然、汐は足を止め、
「その、
何を言い出すかと思えば。俺は気が抜けて笑ってしまう。
「気にすんなよ。好きでやってることだし」
「だね! 汐ちゃんは、どーんと構えとけば大丈夫!」
「……そっか、うん、分かった」
汐は表情を崩して
こういうのいいな、と俺は漠然と思った。友達をしている、という感じがした。迎合や虚栄ではない、純粋な好意と思いやりによって構築された人間関係。その中に、自分がいる。ただそれだけのことが無性に嬉しかった。
俺たちは歩みを再開する。
「怒るっていえばさ、昼休みの
「あはは……ちょっと見苦しいとこ見せちゃったな。はずい」
「いやいや! 褒めてるんだよ。すっごくカッコよかった!」
「そ、そう?」
声が
勇気を出してよかった。心からそう思えた。
「これでクラスの雰囲気もよくなるよ。アリサも、きっと反省してるだろうし」
「……そうだな」
俺が
「じゃ、また明日ね! でもって明日から勉強頑張ろう!」
今日じゃなくて明日からなのか……と思いつつ、俺は
さて。
星原と分かれ、二人きりになったこのタイミングで、俺から汐に話そうと思っていたことがある。昼休みの一幕を経て、授業中もずっと心の準備をしていた。もう、迷わない。
「汐」
歩きだそうとした汐を引き止めるように、俺は声をかけた。
汐は無言で振り返る。不思議と穏やかな顔をしていた。ひょっとすると、汐も俺が切り出すのを待っていたのかもしれない。
俺は
「告白のこと、なんだけどさ」
「うん」
「返事、だけど。俺は……
言い終わると「そっか」と汐は答えた。その声からはなんの感情も読み取れなかった。至極どうでもいい話に相槌を打つような「そっか」だった。
「いいよ別に」
と汐は続けた。
俺は困惑する。その「いいよ」はどういう意味の「いいよ」なんだろう。「返事はいつでもいいよ」? それとも「別に返事はいらないよ」? あの告白は、汐にとって大きな意味を持つ行為だったはずだ。だから後者ではない……と思うのだが、さっきの「いいよ」には、拒否のニュアンスが含まれていたように感じられた。たとえるなら、別に行きたくもないカラオケやボウリングに誘われて断るときに使う「いいよ別に」だ。まぁ俺はカラオケにもボウリングにも誘われたことはないのだが……。
ともかく。その「いいよ別に」の意味は明確にしておく必要がある。わざわざ確認するのは気が引けるが、重要なところだ。
「えっと、悪い、汐。それって──」
「ぼくからも、
少し
「咲馬、
俺は言葉を失った。
ひた隠しにしていた心の柔らかいところを、突然、
固まる俺を、面白がるように汐は笑う。
「やっぱり、そうなんだ」
「な、なんで」
「なんでって。そんなの、見てたら分かるよ。人が人を好きになる顔、今まで何度も見せられてきたから」
汐は軽快に続ける。
「夏希、
妙に早口だった。まるで何かに
「そもそも、あの好きは友達としてって意味だから。勘違いした咲馬が悪いよ。でもさ、普通に考えて、男が男に告白とかあり得ないでしょ。同性に向けられる好意ほど、気持ち悪いものはないよ。それくらい、分かってる。分かってるんだよ。だから、えっと、だから……っ」
言葉に詰まると同時に、汐の目から、つう、と一筋の涙がこぼれた。
汐は自分の
「はは、もう本当ダメだ。なんですぐ泣いちゃうんだろう? 分かってた、ことなのに……」
「汐……」
俺が近づこうとすると、汐は首を横に振って
「大丈夫、大丈夫だから……」
言いながら、汐はスカートのポケットに手を突っ込む。涙を
取り出したハンカチには、赤黒い染みが付着していた。そのハンカチは、
手を止めたのは、ハンカチに血がついていたから? それとも、他でもない
「やっぱり、女の子には
なごり雪のように薄い
遠くでセミが鳴き始める。
もう、夏だった。
セミの鳴き声で目が覚めた。
横になったまま、
ベッドから下りて、カーテンを両手でしゃっと開く。
窓の向こうには、ペンキで塗りたくったような青空が広がっていた。
教室に入ると、下敷きや教科書をうちわの代わりにして
不意に、ふわあ、と星原はあくびをする。そのとき、俺と目が合った。
星原は大きく開いていた口を慌てて閉じると、恥ずかしそうに軽く手を振ってきた。
か、
前方の空席に目をやる。
汐は自分の席に鞄を置くと、こちらに向かってきた。
俺の机の前で足を止める。
「おはよう、
「ああ、おはよう」
ちょっと不安になるくらい、汐は普通だった。
定期考査に向けて授業は早足で進む。世界史の先生が黒板にチョークを走らせているのを眺めながら、俺は授業とはまったく別のことを考えていた。
──咲馬、
それから
最初は無理に明るく振る舞っているのかと思った。だって汐にしてみれば、失恋したようなものだ。実際あのとき泣いていたし、本当は
もしかすると、汐は完全に立ち直ったのかもしれない。そもそも、かつて汐が俺に放ったあの「好き」は、本人の言うとおり友達としての好きだったのかも。時間が
というか、そう考えたほうが楽なのだ。もう汐の告白にどう返事するか悩まなくていいし、さらに俺と星原の仲を取り持ってくれる。汐の言葉は、俺にとってこれ以上なく都合がいい。
だからこそ、不安になってしまうのだけど。
「はぁ……」
「はい
「えっ」
急に指名されてビビる。なんか前にも同じようなことがあった気が。
世界史の先生は、黒板に書かれた文章の空白をチョークでコンコンと
「すいません……分かりません」
「お前なぁ。もうすぐ定期考査なんだから集中しろ」
怒られてしまった。だが先生の言っていることは正しい。定期考査まであと一週間なのだ。
俺は気を取り直して、まずは板書から始めた。
昼休み。
いつものように、俺は
「
蓮見が卵焼きを
俺は箸の先をピッと蓮見に向ける。
「女装じゃないぞ」
「え、そうなのか」
「女装は、男がするから女装って言うんだろ。汐は、ほら、中身が女子っていうか、別に趣味でやってるわけじゃないから。女装は、ちょっと違うだろ」
「……ほーん」
「なんだその返事」
「いやなんか、
「俺はいつだって真面目だよ」
「……ほーん」
「その返事マジでムカつくからやめろ」
ぶす、と俺は弁当のミートボールに箸を突き刺す。
「ま、どうでもいいけど。
「どうでもよくはないけど……いろいろって?」
「行事。文化祭とか、体育大会とかさ」
ふむ、と俺はミートボールを口に入れる。
文化祭に体育大会か。冬になれば修学旅行もある。文化祭は関係ないが、他二つは男女で分かれる場面がいくつも出てくるだろう。そういったとき、
汐もそうだが先生もいろいろ判断に困るだろうなぁ、などと考えていたら、一人の男子生徒が教室の扉から顔を出した。中に入ってきたところで足を止め、教室を見渡す。
細身で長身、顔には薄い
俺は
「誰だ、あの人。三年生?」
「知らないの? あいつ、D組の
「ああ、あれが……」
世良
「あ、いたいた」
世良の視線が定まる。教室の一点を見つめて、
「ね、そこの銀髪の子。ちょっと話したいことがあるから、僕と来てくんない?」
俺は箸を落としそうになった。
この教室に、というか
おそらく、大半のクラスメイトは俺と同じ疑問を抱いている。だから教室の空気は、世良の発言によってにわかに色めきだっていた。
「
扉の近くにいた男子が、ニヤニヤしながら
世良はきょとんとしてその男子を見やる。
「槻ノ木って?」
「銀髪の子」
「……えっ、マジ? 男?」
「うん」
世良は信じられないような顔をして
汐はうんざりした様子で、世良に目をやる。
「何か用?」
そのハスキーボイスで男だと確認できたのだろう。世良はショックでも受けたみたいに
しばらくその態勢のままでいたが、突然、吹っ切れたように前を向いた。
「ま、いっか」
……何がよかったのだろう。
世良は教室の奥へ進み、汐の前で足を止める。ついさっきまで汐と食事を取っていた
「えーと、槻ノ木? 下の名前はなんていうの?」
「……汐」
「じゃあ汐。改めてだけど、大事な話がしたいから僕と来てくんない?」
「今、食事中だから後にしてほしいんだけど」
「すぐ終わるからさ。頼むよ」
ぱしっと手を合わせる世良。
汐は大きくため息を
世良と汐は、二人で教室を出ていく。
大事な話、ってなんだろう。食事を中断させてまで二人で何を話す? モデルでも頼むのだろうか。実はカメラが趣味で、汐に被写体になってほしいとか。おお、我ながらいい線いってる気がする。それなら性別は関係ない。
てっきり告白でもするのかと思った。まぁ、普通に考えてそんなわけない。
*
告白だった。
「ええええええええ!?」
俺はめちゃくちゃ驚いた。並んで歩いている
学校からの帰り道。
いや、呟いたのだった、ではない。え? 告白? 世良が? 汐に?
「こ、告白って、好きとか、そういう意味の?」
俺が確認すると、汐はこくりと
「付き合ってほしい、って言われた」
完全に好きの告白だった。
いや、冗談だろう? 男同士だぞ。そんなの、あり得ない──と思っているけど、口には出せない。告白そのものを否定するのは、汐を男として見ていることと同義になってしまう気がした。
「そそそそれで、汐ちゃんは、な、なんて答えたの?」
動揺を隠しきれない様子で星原が
「いいよ、って」
俺と星原が
「付き合うには条件をつけた」
条件? と俺と星原の声が重なる。
「今度の定期考査で、学年一位になったら付き合ってもいい。そう答えたよ」
学年、一位。
俺は世良の学力を知らないから、その条件が緩いのか厳しいのか分からない。だが問答無用で振らなかったということは、一応、汐のなかに世良と付き合う選択肢はあるのだ。
「汐ちゃんは、どう思ってるの?」
ためらいがちに星原が訊いた。
「どうって?」
「その……世良くんと付き合うことについて」
汐は少し間を置いてから、首を
「さあ、どうだろう。けど、学年一位を取るのはそう簡単じゃない。世良が頑張って勉強して一位を取ったら、そのときは付き合ってみてもいいかな、って思ってるよ」
「そうなんだ……」
星原は釈然としない様子で返事をした。気持ちは分かる。汐に好意を抱いている星原の心境は、たぶん俺よりも複雑だろう。
「
世良は汐のことをほとんど知らないようだったが、汐はどうなのだろう。
「いや、東京からの転校生ってことしか知らなかった。世良はほとんど学校に来てなかったみたいだし、今日まで話したこともなかったよ。あ、でも」
たった今思い出したように、汐は続ける。
「今朝、学校の前で世良と目が合ってさ。それだけで何も話さなかったんだけど、世良はそのときぼくのことを好きになったらしい」
本人がそう言ってた、と汐は付け加えた。
「じゃあ、世良の
「たぶんね」
ふむ……と俺は少し考える。
世良は、名前も性別も知らず、一度も話したことがない汐を好きになった。そしてその思いは、汐が男だと知っても変わらなかった。そう考えると、世良ってすごく
性別さえ意に介さないほど、世良が汐のことを
──けど、なーんかモヤッとするんだよなぁ。理由は、よく分からないけど。
それから交差点で星原と別れ、汐とも別々の帰路についた。
俺は自転車に
自宅まであと五メートル、といったところで、携帯が震える。メールではない。電話だ。俺はブレーキをかけて、ポケットから携帯を取り出す。電話をかけてきたのは、星原だった。
さっき別れたばかりなのに、どうしたんだろう。
俺はドキドキしながら応答する。電話は、直接話すよりも緊張してしまう。
「も、もしもし」
『星原だけど、急にごめんね? ちょっと話したいことがあって……今からまた会えないかな?』
「いいよ」
何も考えず即答した。なんならちょっと食い気味だった。
『ありがと! じゃあ、
「ああ、分かった。すぐ行くよ」
『待ってるね!』
電話が切れる。
携帯をポケットに戻し、ふう、と息を
話したいこと……か。
待ち合わせ場所には、自転車を漕いで一〇分ほどで着いた。
昼間は閑散としている
駅前の時計塔の下に、星原はいた。自転車に
俺は自転車を押して歩き、星原に近づく。
「星原」
名前を呼ぶと、星原はパッと顔を上げて朗らかな
「紙木くん! 来てくれてありがと。早かったね」
「家、近くだからな」
答えながら、
「立ち話もなんだし、ファミレスにでも入ろっか」
「ああ、そうだな」
俺は自転車を漕ぎだす星原に続く。
数分もしないうちに、駅近くのジョイフルに着いた。中はそれなりに混み合っている。椿岡高校の生徒も何人かいたが、俺たちと同学年はいないようだった。
店員さんに案内され、禁煙席の奥のほうに座る。とりあえずドリンクバーを注文し、俺はコーラを、星原がメロンソーダを持ってきたところで、本題に入った。
「話、なんだけどね」
星原は
「
「……世良?」
俺は少し驚く。てっきり
「うん。さっき帰り道で、世良くんが告白したって話、してたよね。そのとき……えっとね」
ちら、と上目で俺を
星原は話しにくそうに続ける。
「世良くんと汐ちゃんが付き合うの、私、ほんとは
「それは、分かるよ。
「そ、それもあるんだけどね! あるんだけど……今話したいのは、ちょっと違ってて」
ちょっと違う? じゃあなんだろう。というか、やけにもったいぶるな。
こほん、と星原は軽く
「
「それは、評判が悪いってことか?」
星原は
転校初日に
「私たちさ。始業式の日に、教室で一人ずつ自己紹介したよね。それ、世良くんのいるD組でもあったんだけど、そのときに世良くんの発言が問題になって」
「それが喧嘩の原因になった、とか?」
「あれ? 知ってるの?」
「や、喧嘩があったってことしか知らないんだ。悪い、続けてくれ」
星原はメロンソーダを一口飲み、続ける。
「喧嘩っていうか、集中砲火みたいな感じだったらしいんだよね。でも世良くんは全然反省してなくて。それがまた火に油を注いだっていうか」
「世良は、なんて言ったんだ?」
星原は少しためらってから答えた。
「
「うへぇ」
ド田舎なのは否定しようがない。というか俺も完全に同意だ。しかし芋っぽいと口にして
「たしかに、いい話ではないな」
「それだけじゃなくてね。個人的にはこっちのほうが
「へえ……」
噂なので
──っていかんいかん。今のは明らかに偏見だ。噂と経歴で人格を決めつけるなんて、浅はかにもほどがある。それこそ俺が忌み嫌う田舎者の思考回路だ。
気持ちを切り替えるように俺がコーラを
「もちろん、あくまで
「そんなことないだろ」
「そうやって自省できるだけ星原は優しいよ。ていうか、自分にとって大切な人が、評判の悪いヤツに言い寄られてたら、誰でも警戒するって」
「……そうかな」
「ああ。それに
「でも、世良くんって頭いいみたいなんだよね……」
「え、マジ?」
「うん。友達から聞いたんだけど、転入試験をノー勉でパスしたんだって。D組で自慢してたらしくてさ」
「へ、へえ」
「しかも、五月に中間試験あったでしょ? そのときに国語と英語で満点取ったらしいの。途中で帰っちゃったせいで、学年順位は真ん中くらいみたいだけど」
転入試験の難度は知らないが、中間試験で満点を二つも取ったのはすごい。特に国語は相当難しかったはずだ。得意科目が国語の俺ですら前回のテストは九二点だった。定期考査で学年一位は、おそらく世良にとって十分手が届く範囲の実績なのだろう。
世良は、本気で汐と付き合いたいと思っているのかもしれない──。
「はぁ、どうしよ……」
星原はしょんぼりと肩を落とす。
「そ、そんなに落ち込むなよ。まだ世良が一位取るって決まったわけじゃないし。それにほら、あれだ。俺と星原のどちらかが一位取っちゃえば、世良も
星原を励ますために、冗談で言ったつもりだった。
しかし星原は「それだ!」みたいな顔をした。テーブルに身を乗り出し、キラキラした目を俺に向けてくる。
「そうだよ、私たちが一位取っちゃえばいいんだ! そしたらなんの心配もなくなるじゃん!」
「ま、待て待て。ちゃんと話聞いてたか? 一位取るのは簡単じゃないって」
「でも、今から必死に勉強すれば……!」
「あと一週間しかないんだぞ? 星原、前の定期考査は何位だったよ」
その言葉で冷静になったのか、星原は身を引いて、しゅん、とうなだれた。
「…………一七六位」
二年の生徒数は二〇〇人ちょっとだ。……そ、想像以上に悪い。
「
「俺? 俺は……たしか、二三位」
「いけるじゃん!」
俺は高校を卒業したら、
「一位は厳しいよ。今まで
「私も頑張って手伝うから! 私と
「でもなぁ」
「一位取ったら紙木くんのお願いも聞いてあげるから!」
「え?」
「一肌でも二肌でも脱ぐから!」
「え!?」
星原が、脱ぐ? 俺のお願いを聞いて、脱ぐ、ということは、つまり。
突如、脳裏に星原の姿が映し出される。星原は恥ずかしそうに
俺は、自分のやるべきことを理解した。
「分かった。一位、全力で取りに行く」
「やったー!」
星原が両手を挙げて喜ぶ。俺は即座に後悔し、自分の頭をテーブルに打ちつけたくなった。
外は日が暮れかけていた。
「じゃ、勉強頑張ろうね!」
店の前で星原と別れた。自転車に乗って漕ぎだす星原を、緩く手を振りながら見送る。彼女の背中が見えなくなったところで、俺はペダルを踏み込み、星原とは反対方向に進んだ。
「どうすっかなぁ……」
風を切りながら
どうするもこうするも、死ぬ気でテスト範囲を頭に叩き込むしかない。ただでさえ汐のことで最近は授業に集中できていなかった。今後は睡眠時間を削る必要も出てくるだろう。気が重い。
「はぁ……」
急にため息が
まぁ、あれだ。別に、一位を逃しても俺が損するわけではないのだ。ならやるだけやってみよう。一位を取ったら、
信号に捕まる。
俺はペダルから足を下ろす。するとそのタイミングで、携帯が震えた。ポケットから取り出して画面を見てみると、妹の
『ヨーグルト』
メールの内容はその五文字だけだった。簡潔すぎる。昭和の電報か。
これはヨーグルトを買ってこいという意味だろう。たまにあるのだ、こういう使い走りが。かなりイラッとするが、無視すると後々面倒なので、最寄りのコンビニに行くことにする。お金はあとで請求しよう。
我ながら妹に甘いな……などと思いながら、俺は来た道を引き返す。ここから一番近いコンビニは
自転車を
俺はコンビニを出る。そこで、見知った顔を見つけた。
椿岡高校の制服を着た長身の男。あれは……
二人の会話が止まる。世良が女の子の肩に手を回した。そして何をするのかと思いきや。
びっくりするくらい自然に、その子と
俺は
キスされた女の子は、ぼおっと世良の顔を見つめたあと、逃げるように改札口へ駆け込んだ。世良は満足げな表情で、歩いてこちらへ向かってくる。一瞬、盗み見がバレたと思ってドキッとする。だが世良は素知らぬ顔で俺の横を通り過ぎ、そのままコンビニに入った。よかった、バレていない。たぶん、俺が汐のクラスメイトだということにも気づいていないだろう。
──さっきのキス、見間違いじゃないよな。
不意に、星原の言葉が脳裏をよぎる。
『世良くん、女癖がよくないみたいで』
あの
どうも気がかりでその場を離れられずにいたら、世良がコンビニから出てきた。
「あ……なぁ、ちょっと」
駅から出ようとする世良を、俺はとっさに呼び止める。
すると
「ん? なんか用?」
「用っていうか……」
「あ、君も
「いや、そうじゃないんだけどさ」
世良は愛想のいい
「さっきの女の子、なんなんだ」
「あ、見てた? じゃあ分かるでしょ。君、どんな相手とキスするよ」
「……か、彼女?」
「そ。一個下なんだけどさ、うぶで
世良は
「世良は、あの子と付き合ってるのに、
「あれ、告白のこと知ってるんだ。情報通だね」
「情報通っていうか……汐とは、友達だから」
「ふーん、そうなんだ。さっきの質問だけど、そうだよ。あの子と付き合いながら、汐に告白した」
あまりに平然とした態度に、俺は困惑した。浮気の追及をしているのだから、普通はもっと動揺するはずだ。なんだか俺のほうが間違っているような気がしてきた。
「……汐とは、付き合うつもりがないのか?」
「いや、あるよ。男って聞いたときはびっくりしたけど、ああいうのも新鮮かなーって思って。なんか条件出されたけど、まぁ、そんな面倒な条件でもなかったし」
定期考査で学年一位を取ることが、面倒な感じでもない? 大した自信だ。勉強ができるという話も、どうやら本当のことらしい。
──いや、問題はそこではない。
「他校の女子と交際しながら汐と付き合うって、
「そうだね。けど、別によくない?」
「いや、よくないだろ。そんなの、不誠実だ」
「不誠実!」
面白い冗談だと言わんばかりに、世良は俺の言葉を高らかに繰り返した。口の端を上げて、
「な、何がおかしいんだよ」
「ごめんごめん。不誠実、ね。でもさ、僕は二人ともちゃんと好きだぜ。君が言いふらさないかぎり、
どう答えたものか考えあぐねていると、
「じゃ、僕は行くね。バイバイ」
「あ、ああ……」
俺の返答など期待していなかったように、世良は軽やかな足取りで駅から出ていく。その背中を眺めていると、胸の底から苦々しい気持ちが
「なんだ、あいつ……」
あれは今まで話したことのないタイプだ。世良からは、悪意も見栄も感じられなかった。まるで無邪気な子供を相手にしているような──なんとも
ただ。
あいつとは、仲よくなれないそうにない。
*
翌朝。
「ふわあ……」
2Aの教室に向かっていると、あくびが
昨日は家に帰ったあと、ヨーグルトを冷蔵庫に入れ、パシらされたぶんのお金を
2Aの教室に入る。
俺はちょっと意外に思う。
真島と椎名。二人とも
仲直りというより、今は西園が謹慎中で派閥を意識する必要がないのだろう。星原が楽しそうにしているなら、別になんでもいい。
俺は自分の席に着く。
一時間目が始まるまで軽く睡眠でも取ろうかな、と机に突っ伏そうとしたら、教室に入ってくる汐の姿が視界に映り込んだ。
俺は思わず頭を起こす。言うまでもなく世良はA組ではない。一体何をしにきた。というかどうして汐と一緒にいる?
「それでさー、テレビつけたらキテレツ大百科の再放送やってんの。マジビビった」
「東京じゃやってないの?」
「やってるわけないじゃん。昭和か! ってテレビに突っ込んじゃったよ」
「ふうん。面白いけどね。キテレツ」
──なんか、普通に話してんだけど。
汐は淡々としているが、世良を追い払うことなく話に付き合っている。自分の席に着いたあとも、そばに立って
しれっと入室してきた世良に、クラスメイト全員が
そこに一人の女の子が近づく。
「お、おはよう。それと、世良くんも……」
「おはよう、
「夏希ちゃんって言うんだ? どもども、世良
星原は引きつった
「二人とも、仲いいんだね? ちょっとびっくりしちゃった。汐ちゃんと世良くんが喋ってるとこって──」
「汐ちゃんって呼んでるんだ!? 何それおもしろ! 僕も汐ちゃんって呼んじゃおっかな」
星原の笑顔がさらに引きつる。
汐は苦笑いして首を横に振った。
「別に、呼び捨てでいいよ」
「えー、なんで? あ、もしかして恥ずかしがってる?」
「世良のちゃん付けは、バカにされてる感じがする」
「はは! んなことないって! けどそう言うなら、汐のままでいこうかな」
心なし、星原は安心したように
「あはは……世良くん、汐ちゃんとは昨日知り合ったばかりだよね? もうそれだけ打ち解けられるの、すごいなあ」
「そりゃあ、付き合う約束したからね」
星原が凍りついた。
俺も固まった。他のクラスメイトもだ。教室の
「え、付き合う?」「付き合うって言った?」「誰と誰が?」「
さすがにさっきの発言は、
「まだ確約したわけじゃない」
「定期考査で一位取ったら、だよね。分かってるって。勉強は得意だから安心してよ」
そういう意味じゃ──と汐が言いかけたところで、予鈴が鳴った。
「あ、もうこんな時間。じゃあ僕は自分の教室に戻るから。またね、汐」
世良は教室から
とんでもない爆弾を落としていった。教室はざわめきを増す。汐は頭痛を覚えたように
そして俺は、
世良は汐との交際を望んでいることを、教室中に響き渡る声量で、なんのためらいもなく、示した。周りの目など一ミリも気に留める様子はなかった。
周りにどう思われるか気にしないのか? きっと次の休み時間から話題の人だ。廊下を歩けば、笑われたり引かれたりすることもあるだろう。
──いや。
もしかして、そんなことを考える俺のほうが間違っているのか?
世良の言動にはなんの偏見もない。ただ
いやでも、世良はすでに他校の女の子と付き合っている。
じゃあおかしいのは、やっぱり世良か? それとも俺?
混乱してきたところで、HRの開始を告げるチャイムが鳴った。
それから休み時間ごとに世良は俺たちの教室を訪れた。
今朝と同じように、汐となんでもないお
予想していたが、やはり世良は
予想外だったのは、世良はそれらを認識しながら、少しも怒ったり悲しんだりしなかったことだ。どころかフレンドリーな態度で、積極的に首を突っ込んでいった。
たとえば「男同士とかきっつ」と誰かが言えば「君も新しい扉を開いてみない?」と茶化しに向かい、「付き合ってもできねーじゃん」と耳にすれば「何ができないの? 教えてよ」と無知を装い
ちょっとキモイな、と思ってしまうところもあるが、
クラスのボス的存在である
そして放課後も、世良は
「やあ汐、一緒に帰ろう」
ちょうど汐が教室を出たところだった。汐のそばには俺と
「ちょっと駅前のほう案内してくんない? まだここらへんの土地勘ないんだよね」
横から割り込んできた世良に、星原がムッと顔をしかめる。
「もうすぐテストだし、あんまり遊ばないほうがいいんじゃないかな……?」
「えー、そう?
「や、そんなことないけど……ただ、汐ちゃんが迷惑するかなーって……ね?」
星原が汐に目配せすると、
「別に、ぼくは大丈夫だよ」
と汐は答えた。わりと乗り気のようだ。星原は「がーん」と聞こえてきそうな表情をする。
「じゃ、じゃあ私も」
「いや、いいよ。夏希は、
そう言って、今度は汐が俺のほうを見る。
もしかして気を使っているのだろうか。俺が星原に好意を寄せていることを、汐は知っている。だから二人きりにさせてやろうと。気遣いはありがたいが、正直、あまり喜べない。
「ほら汐、早く行こう」
世良が汐の腕を引く。汐は「それじゃあ」と別れの
教室の前に、俺と星原が取り残される。
俺はおそるおそる隣を向いた。
「じゃあ……帰るか?」
*
「も~~~! 何あれ!」
いつもの帰り道。自転車を押しながら、
「
俺は苦笑しながら「まぁまぁ」と星原をなだめる。
「
「悔しいっていうか……」
どうだろう。世良のことは好きになれそうにないが、汐とくっつくことに関しては、まだはっきりと結論が出ていない。
「私は悔しい! やっぱ世良くんと汐ちゃんが付き合うのはダメ! もう私の頭ん中からそういう信号が出ちゃってるもん!」
「なんだそれ」
少し笑ってしまう。なんというか、抽象的な表現だった。
言うだけ言って
「だから紙木くん、頑張って一位取ってね」
あ、結局そこに帰結するのね。
「ま、任せといてくれ。頑張るからさ」
自分で言っといてなんだが、声に自信のなさが
テスト勉強の時間、もっと増やそうかな……と考えていたら、星原は突然しおらしく「ごめんね」と謝った。
「え、何が?」
「私がやってること、他力本願ってやつだよね」
「うん」
「速いよ返事が! もう少し迷ってよ!」
初めて星原をめんどくさいと思った。
他力本願なのは分かりきったことだ。俺はそのうえで学年一位を取る努力をしている。だから、そこに関して文句を言うつもりはない。そもそも俺のほうだって、星原に『お願い』を聞いてもらいたいからという、ちょっと不純な動機で引き受けている部分もあるわけだし。
星原はまたがっくりとうなだれる。
「でも、私ね、世良くんと汐ちゃんが付き合うの、本当に
「それは……生理的に無理、みたいな話?」
「その言い方はちょっとひどいけど……うーん、なんて言えばいいのかな」
「す、スイカ?」
「うん。スイカって、
「そういう話は聞くけど……」
「たぶん、人間も同じなんだよね。言葉で叩いて、返ってきた音で相手の性格が分かるっていうか」
スイカで例えた意味はよく分からないが、言いたいことは分かる。
「でも
「いや、なんとなく分かるよ。
「うん、そんな感じ。とにかく、私は苦手だな……」
当然、俺は星原の性格を完全に把握しているわけではない。だが、彼女がここまで他者への嫌悪感を
「それ、
「ええ、言えないよ。世良くんが明らかに悪い人ならともかく、ただ私が苦手ってだけだし」
「でも俺には普通に話してるよな」
「それはだって、
相談相手! これは素直に
心の中でガッツポーズしていたら、星原は「話を戻すけど」と切り出した。
「紙木くん、テス勉のほうは順調?」
やっぱりそこが気になるのか、と思いつつ俺は答える。
「あー、うん。一応順調。ちょっと時間不足な感はあるけど」
「つまずいてるところとかない? 苦手科目とかさ」
「
「なるほど、数学ね。それ以外は?」
「数学以外なら、やっぱ暗記系がきついな。こればっかりは頑張って覚えるしかないけど」
ふむふむと
「分かった。ちょっと自分にできること探してみる。もし他に困ってるところがあったら教えてね。ほんと、なんでも聞くからさ」
「ああ。助かるよ」
本当は
明日は土曜日だ。特に予定もないし、週末はすべて勉強に費やそう。
*
あっという間に月曜日が来た。
本当にあっという間だった。土日はひたすらテスト勉強に明け暮れたが、
学年一位を取るには、最低でも全科目九〇点以上取る必要がある。だが俺がこのまま勉強を進めても、おそらく平均八〇点が限界だ。それでは一〇位以内に入れても、一位は難しいだろう。
定期考査が始まるのは三日後の木曜だ。それから金曜、土曜とテストが続く。休日の日曜を挟んだら、いつもどおりの時間割に戻る。その後テストが返却されたら、夏休みは目前だ。
ここが踏ん張りどころとなる。頑張らないと。
俺は
下駄箱の前に
汐は脱いだ靴を
女の子っぽいな、と俺は思った。今まであまり意識してこなかったが、靴を脱ぐ仕草一つ取っても男女差が出る。汐にとっては、あれが自然体なのだろうか。それとも、女の子として生きるようになってから身につけた所作なのだろうか。
そんなことを考えていると、汐が俺に気づいた。こちらに身体を向けて、顔を
「
「うっす」
俺は下駄箱へ進み、手早く靴を履き替える。汐と一緒に2Aの教室へ向かった。
「咲馬、もしかして寝不足?」
突然、汐がそんなことを
「え、なんで?」
「クマができてるから」
「ああ……昨日は夜遅くまで勉強してたんだ」
「へえ。咲馬ってそんなに勉強頑張るタイプだっけ?」
「あー、うん。最近授業に集中できてなかったからさ。その分、自習頑張ろうと思って」
「ふうん……そうなんだ」
俺が学年一位を目指していることは、伏せておいた。言ったら話がややこしくなりそうだし、
「ところで、先週の金曜はどうだった?
「まぁ、うん。気まずくなったりはしなかったよ」
「そっか。それは、よかった」
「そっちはどうだった? あの日は、
「ああ。適当に歩き回って、最後に喫茶店で甘いもの食べて帰ってきたよ」
デートみたいだ、と思った。
街中を歩く汐と世良の姿を想像する。
「汐から見て、世良はどんな感じ?」
「どんなって?」
「たとえば、いい人とか、悪い人とか」
汐は歩きながら
「不思議なヤツだね、世良は」
判断に困る評価だった。汐もまだ、世良の人格を測りかねているのだろうか。
汐は前を見ながら淡々と続ける。
「喋ってると子供のようにも大人のようにも感じる。良いか悪いかで分けられるほど、あれは単純じゃない気がするな。ただ……」
「ただ?」
汐は少し迷うような表情を見せたあと、俺のほうを
「
と、
「それってどういう──」
意味だよ、と続けようとした瞬間、背後から「汐!」と声が聞こえた。
振り向かなくても誰だか分かる。世良だ。ヤツは汐のそばにやってきて、汐の肩に手を回した。だが汐はその手をすぐさま振り払い「暑苦しい」と
「つれないなあ。ただのスキンシップだよ」
「歩きにくい。もうちょっと離れて」
「いいじゃん、別に」
「ちょ、重い。寄りかかるな」
朝から何を見せられているんだ、と思うと同時に、モヤッとした感じが胸に広がった。
妙な感覚だった。いろんな感情が混ざり合って生まれた「モヤッ」だ。男同士でべたべたとくっつき合う光景に嫌悪しているのか、俺に
とにかく、いい気分ではない。
俺は歩くペースを速め、二人を追い越して先に教室へ入る。
自分の机に
遅れて
汐が席に着くと、一人の男子が世良と汐に近づいた。
「お前らめっちゃ仲いいよなー。てか、世良もうA組の生徒になっちゃえよ」
「いいねそれ。今度先生に相談してみるよ」
「お、今の聞いたか汐? こいつが約束守るか見張っとこうぜ」
「いや、今のままでいいよ……」
もうすっかりA組に
汐が、自然な感じで会話に参加していた。これは以前の状況に比べると大きな進歩だ。一部の男子は汐に歩み寄りを見せていたが、まだ教室内での汐は、
もしこのまま二人が付き合うことになったら、汐は男子だったときと同じくらい、クラスに溶け込めるようになるかもしれない。
……でも、なんだかなぁ。
仮にそれで汐がクラスの人気者に返り咲いても、正直、複雑だ。いや、大切なのは汐の気持ちなのだが……でも、ううん。
クソ、わけが分からん。俺は一体何を悩んでるんだ?
その後、いつもとなんら変わりなく授業が進行し、放課後になった。
身支度を素早く済ませた
と思ったら、ほんの一言二言交わして、汐は先に一人で教室を出ていってしまった。星原は落胆したようにうなだれると、少し時間を置いてから、とぼとぼと退室する。
俺は帰り支度をして星原のあとを追った。
「どうした?」
廊下で呼びかけると、星原はなおも落ち込んだ様子で俺のほうを振り返った。
「ああ、
「あー、マジか」
先手を取られたようだ。
しかし、汐が世良を選ぶとは。
もしかして汐は、まだ俺に気を使って星原と二人きりにさせてやろうなどと考えているのだろうか。だとしたら逆効果だ。一度や二度ならともかく、それがずっと続いたら普通に気まずい。汐の存在は、少なからず俺と星原の
かといって汐に「一緒に帰ろう」と声をかけに行くのも気が進まなかった。もし汐が、俺と星原の三人でいることに居心地の悪さを感じていたら……そう考えると、胃の辺りがぐっと重くなる。
「どうする?」
俺は星原に
「正直めちゃくちゃ残念だけど……仕方ないよ」
「そうか……」
「私たちも、これからは別々で帰る?」
それは俺が恐れていた提案だった。
多少気まずくても、俺はできるだけ星原の近くにいたい。だが、付き合ってもいない男女が毎日一緒に帰るのは不自然だ。さすがの星原も、周りの目を気にしてしまうだろう。
「そうだな、そうしよう」
落胆を表に出さないよう、
とりあえず昇降口まで一緒に向かうことにして、俺と星原は廊下を進む。
「紙木くん、今日の夜なんか予定ある?」
歩きながら星原が
「いや、何も。ひたすら勉強だけど……」
「だよね。実はさ、紙木くんのためにちょっと勉強会しようと思ってね。よかったら六時に駅前のジョイフルに来てくんない?」
地面すれすれまで沈んでいた気持ちが、上昇気流に乗ったみたいに舞い上がる。
星原が俺のために勉強会。これほど胸が躍るイベントがあるだろうか? 叫び出したくなるのをぐっと
「助かるよ。星原が勉強を教えてくれるのか?」
「いやいや、私が紙木くんに教えられることなんてないよ」
何言ってんのもう、と星原は笑う。じゃあダメじゃん。
「紙木くんに勉強を教えるのは別の人だよ」
あ、二人きりじゃないのね。そりゃそうか、勉強会だもんな、二人じゃ少ないよな……。
風船に穴が開いたみたいに期待が
「その勉強会には、誰が来るんだ?」
「それはね……来てからのお楽しみに!」
ぶっちゃけ他に人が来る時点でテンションはだだ下がりなので、誰が来ようがどうでもいい。せめて知っている人ならいいが。
昇降口に到着すると、
午後六時を三分ほど過ぎた
自転車で約束のファミレスにやってきた。さすがに制服のままで行くのはどうかと思ったので、Tシャツとチノパンに着替えている。筆記用具と教材を詰めたトートバッグを肩にかけ、俺は店に入った。
「お一人様ですか?」と声をかけてきた店員さんに「待ち合わせで」と伝え、星原の姿を捜す。夕食の時間には少々早いが、店内は混み合っていた。学生や家族連れの客が多い。
きょろきょろしていると、禁煙席の奥から「おーい」と声が聞こえた。星原だ。座りながら後ろを向く形で、俺に手招きしている。俺は軽く手を挙げて、そちらへ向かった。そして星原がいる壁沿いの四人がけテーブルの前で立ち止まる。
星原も私服に着替えていた。無地のキャミソールの上に、薄手のカーディガンを羽織っている。今まで制服姿しか見たことがなかったので新鮮だった。
だがそれ以上に気になるのは、星原の対面に座る女子制服の二人だ。小麦肌のボーイッシュなショートヘアと、しとやかそうな黒髪ロング。
「よっす。
「こんばんは、紙木くん」
話したことのない女子が二人。こうなることは予想できていたのに、俺は蛇に
「あ、ども……」
とりあえず
星原は、隣の空いた
「ほら、ここ座って」
「あ、ああ」
言われたとおりにする。
俺が来る前にドリンクバーを注文していたようで、三人の前にはそれぞれグラスが置かれていた。真島と椎名が制服なのは、部活帰りだからだろう。真島はソフトボール部で、椎名は、たしか吹奏楽部だ。テスト期間中でも、一部の部活はインターハイやコンクールに向けて一時間ほど練習を行っている。そんな忙しい時期によく集まってくれたものだ。
俺が状況の把握に
「
「や、えと……」
どう反応していいか分からずあたふたしていたら、
「茶化さないの。今日は
「へいへい」
真島はつまらなさそうに返事をする。
真面目な話? 勉強会を開くんじゃないのか?
疑問に思っていると、椎名が俺のほうを向いた。
「聞いたわ。
「ああ、まぁな」
「紙木くんは、
「どうっていうか、俺は星原にお願いされただけで……」
「だから言うことに従ってるの? 曲がりなりにも人の恋路を邪魔するんだから、そんな中途半端な気持ちで臨まないほうがいいと思うけど」
俺は面食らう。そんなことを言われるとは思っていなかった。
たしかに中途半端であることは否定できない。どう答えたもんかと思いながら隣を見たら、
「しいちゃん、
「ごめんね
「ええ、そんな」
星原が困惑した声を上げると、
「シーナさぁ、別にそこはどうでもよくなぁい? 紙木も同意してんだし」
「マリンは黙ってて」
「へーい」
椎名は「こほん」と
「私はね、紙木くんが何を考えているのか知りたいの。ここまで聞いた話だと、あなたからはあまりに主体性が感じられない。何を考えているのか分からない人に協力するのは、はっきり言って不安です」
そう、椎名はぴしゃりと言った。
もっともな意見だ。同じクラスメイトではあるが、俺と椎名が話すのはおそらくこれが初となる。いくら星原の紹介とはいえ、素性の知れない人間に手を貸すのは抵抗があるだろう。
ただ……俺が協力を頼んだわけでもないのに、なんでそんな上から目線なんだ? と思わなくもなかった。もちろん、口にはしないが。
テスト週間の部活終わりという、貴重な時間を使ってまで来てくれたのだ。あくまで低姿勢に、正直に答えるべきだろう。
「俺は……
つっかえつっかえだが、自分の気持ちを
しかし椎名は、俺の返答がお気に召さなかったようで、
「なんか、あやふや」
「でも、本心だよ。そう言う椎名のほうはどうなんだ?」
椎名は考えるような
「私は、
「そ、そうだったんだ……」
「私も世良くんのことは苦手だけど、彼が槻ノ木くんに向ける好意は本物だと思う。じゃないと何度もああやってうちのクラスに来ないでしょう。それに……
「余地はあるんじゃない?」
と
「今はないと考えて」
と
「今は一歩引いた態度の槻ノ木くんも、そのうち世良くんに気を許すようになるかもしれない。なら、二人が付き合うのもアリかなって思ったの。でも、
「……なんだそりゃ」
俺は
というか……。
「それ、俺とあんまり変わんなくないか? 結局は星原に頼まれて自分の考えを変えてるわけだろ? そもそも、他人の直感を判断材料にしてるほうがあやふやなんじゃ……」
「私は一年生のときから夏希と同じクラスで、この子を近くで見てきたの。だから今回の夏希がどれだけ本気かも分かってる。あなたと違って、ちゃんと友達のことを考えてるの」
今の発言にはカチンと来た。
「友達のことをちゃんと考えてる?
それまでツンと澄ましていた椎名の顔に、怒りが
俺は後悔する。まずい。言い過ぎた。
謝らないと。そう思った。だが同時に、これは謝るべきなのか? という疑問も
強い言葉を吐いた自覚はある。だが間違ったことを言ったつもりはない。
……けど。
それでもやっぱり、今は敵対するべきではない。椎名を呼んだのが星原とはいえ、俺は協力してもらう立場だ。
謝罪の言葉を口にしようとしたら、突然、
「ひあっ!?」
悲鳴を上げる椎名。背中を
椎名は必死の形相で背中に入った氷を取り出すと、ぷるぷる震えながら真島の肩を殴った。
「この……アホマリン! 人が
真島はまったく反省もせず、「へへへ」といたずらっぽく笑う。
「やー、なんか熱中してたからさ。涼が必要かな、と思って」
そう言うと、真島はテーブルの呼び出しボタンを押した。椎名は小言を並べていたが、店員さんが来た途端、苦々しい顔で口を
「山盛りポテトフライ一つ。
「あ、じゃあ……ドリンクバーを」
店員さんは注文内容を復唱し、
「ちょっとマリン、話の腰を折っといて何を平然と……」
「はいはい、もう怒んないの。どうせ紙木と目的は同じなんだからさ、そんなにやっかまなくてもいいじゃん」
「別に、やっかんでなんか……」
「いーや、やっかんでるね! 紙木に勉強教えてやって、ってなっきーに頼まれたとき、シーナの顔すごい引きつってたもん。なんでそんな見ず知らずの男と急に仲よくなってるの、って顔に書いてあったよ」
「そ、それは……」
椎名の目が左右に揺れる。どうやら図星らしい。
「まぁ気持ちは分かるけどさ。今はなっきーのために協力しよ、ね?」
椎名は
場違いながら、俺はすっかり感心していた。険悪なムードを、真島はあっという間に解消してしまった。俺が考えている以上に、彼女は気遣いのできる人なのかもしれない。
真島は真面目な顔をして俺のほうを向く。
「あと紙木。見て見ぬ振り
「……ああ、分かったよ」
俺は椎名のほうを見る。
「その、悪かったな。つい、カッとなった」
「……別にいい。最初に
ばつが悪そうに謝罪する
「
「ああ、そうだな……」
「あ、私も行く!」
俺が席を立つと、星原が空になったグラスを持ってついてきた。
ドリンクバーの前まで来ると、唐突に星原が「はあ~」と長いため息を
「見ててハラハラしたよ~、
「悪いな……真島がまとめてくれなかったらどうなってたか」
「マリンはしっかり者だからね。女子ソフトの副キャプテンだし。あと、しいちゃんの
「へえ、そうなのか」
どおりで息が合っていると思った。
俺はグラスにコーラを注ぐ。星原はりんごジュースだ。二人で元のテーブル席に戻った。
テーブルの上には、二枚のクリアファイルが置いてあった。さっきまでなかったものだ。
先に星原を席に着かせて、俺はあとから座る。
「これは?」
「これはねー、去年の定期考査の過去問。先輩から借りてきた」
「おお……!」
ありがたい。今までずっと一人でテスト勉強をしてきたので、過去問で対策を講じるという発想がなかった。帰宅部の俺にとっては貴重な代物だ。
椎名も同じように用紙を取り出す。
「こっちは予備校でもらった定期考査対策のプリント。コピーしたものだから、あなたにあげるわ」
あれだけ突っかかってきたわりには、俺のために教材を用意してくれていたのか。
「ありがとう、恩に着る」
「別に、いいけど。ちゃんと役に立ててよね」
俺は
しかしまぁ、わざわざ先輩に過去問を借りたり予備校のプリントをコピーしたり、ここまでで協力してくれるとは思わなかった。これも星原の人徳だろうか。ともあれ、活用しない手はない。ここまでしてもらっているのだ、意地でも一位を取らなければ。
俺はクリアファイルを受け取る。過去問を斜め読みしていたら、真島が注文したポテトフライが運ばれてきた。
「みんな自由につまんでいいよ。
「あ、うん。じゃあ、遠慮なく……」
俺はテーブル
「紙木って、ポテトチップスとかも箸で食べる人?」
「え? 普通に手で食べるけど」
「じゃあなんで箸なんか使ってんの? 手でいきなよ手で! みみっちい!」
「いや、これはプリント汚しちゃまずいと思って……」
「あ、そういうこと!? なんだ、めっちゃ
ケラケラと笑う真島。なんか楽しそうなヤツだな……。
「そういうの、マリンはもっと気にしなよ。この前貸した漫画にもお菓子のカス挟まってたし」
「えー、ほんと? 気をつけて食べたんだけどな」
「まずお菓子食べながら漫画読むのやめなさい。それやるとキレる人もいるからね……」
椎名の突っ込みに、真島は「はーい」と間延びした返事をする。そのやり取りを見て
とっくに緊張は解けていた。どころか今は、この女子女子した空間に居心地のよさを感じていた。冷静に考えたら、今の状況は年頃の男子にとって喜ばしいシチュエーションなわけで、気分がよくなるのは自然なことかもしれない。
などと考えていたら、背後から「げ」と声が聞こえた。
俺は振り返る。そこには、大胆に肩を出したトップスにホットパンツという、派手めな格好をした女子が立っていた。浅めにキャップを
冷水を浴びたみたいに俺の表情筋が
「なんで、こいつがここにいんの……」
西園は露骨に
星原が西園のほうへ身を乗り出す。
「あ、やっと来た! もう始まってるよ、ほら座って座って」
え!? と俺と西園の声が重なった。まさか、星原が呼んだのか? いつの間に西園と仲直りしたのだろう。
「もしかして、
「そうだよ」
「帰る」
「え!? ちょ、待って!」
なんとかして俺を乗り越えた星原は、西園の肩を
「待ってアリサ! 話だけでも聞いて!」
星原が
人目を気にした西園は、
西園に逃げる気がないと分かって安心したのか、星原は俺の隣に座った。
「あのね、実は──」
話を聞き終えた西園は、
「えと、だから勉強ができるアリサが協力してくれたら、心強いな~って……」
星原は作り笑いを浮かべて西園をおだてる。そういえば、見た目のわりに西園の成績はいいんだったな、と思い出す。
だがいくら勉強ができても、これは明らかに人選ミスだ。このあいだ教室であったことを考えたら、西園が俺に協力してくれるとは思えない。
「……私さ、何度か夏希のこと無視したよね。さすがにあれは悪かったな、って自分でも思ってたの。だから昨日、電話で頼まれたときもオーケーしたわけ。でも、これは無理。なんで私が、よりにもよってこいつに勉強教えなきゃなんないの?」
西園は責め立てるようにテーブルを指先でコンコンと
「だって、アリサより成績いい友達、他にいないし……それに、仲直りのきっかけって必要だと思うから……」
ビクビクしながら星原が答えると、西園は
「あのね。仲直りっていうのは、元々仲がよかった人同士がするものでしょ? ちょっと言い争っただけでなんの接点もないこいつとは、これ以上どうにもならない」
「でも……」
「でもじゃない。何を期待してるのか知らないけど、こいつには絶対謝らないから。ていうか前から気になってたんだけど、なんで
「
「ふーん……」
じろ、と
「あんた、夏希に恩を売っといて、あわよくば付き合っちゃおうとか考えてんじゃないでしょうね」
「そ、そんなわけないだろ」
ドキッとした。口ではそう言ったが、完全には否定できない。
「はっ。本当はヤることしか頭にないくせに。男が女に優しくするのは、一〇〇パーカラダ目当てだからね。あんたもどうせ夏希のことエロい目で見てんでしょ」
「みっ、見てねえよ!」
どうしてこう低俗なセリフを平気で口にできるのか……クソ、顔が熱い。
俺はおそるおそる横目で星原を見る。すると目が合った。星原は気まずそうに顔を伏せ、
「お前……本当に性格が悪いぞ。あれだけのことがあって、何も反省してないのか?」
「別に? まぁちょっとやりすぎだと思ったところはあるけど、何も間違ったことは言ってないから」
こいつ、言い切りやがった。
一体この自信はどこから
「気持ち悪いだのなんだの、
「率直な感想を言っただけだから。気持ち悪いもんは気持ち悪いんだから仕方ないでしょ」
「だからって暴言まで吐く必要はなかったはずだ。気に入らないなら無視しとけばいい」
「同じクラスなんだから
「
「ちょっとちょっと、二人とも熱くなりすぎだって」
「アリサ、とりあえず何か口にしよう。そしたら落ち着くから……」
「二人は口挟まないで」
有無を言わせない強圧的な声。真島と椎名は、
「どうせあんたの言う気遣いって、相手を言葉で気持ちよくするだけのもんでしょ。結局その場しのぎでしかない。あんたさ、
「……何が言いたいんだ?」
「汐はさ、めちゃくちゃモテたの。何もしなくても女の子が寄ってくるし、汐に告白されてノーって答える子は絶対いない。男のままでいたら、普通の人よりかは楽に生きられる。でも、女になったらそんな恩恵は受けられなくなるの。どころか笑われたり避けられたりして、今よりずっと生きづらくなる。それでもあんたは、汐に女でいてほしいと思うわけ?」
真剣な
俺は
「西園の言う楽な生き方が、汐にとっては苦痛だったんだろ。周りがどう言おうと、俺は汐の意志を尊重する」
「
「それは……男のままでいても同じだろ。どんな選択をしても、一度も後悔しないことなんてあり得ない」
「でもある程度の予測はできるよね? 汐みたいな普通じゃない生き方が苦労することくらい、分かりきってるでしょ。それに人の気持ちは変わっても、性別は簡単には変えられない。だったら多少の不満はあっても、自分の
俺は言葉に詰まる。
足元がぐらつくような感じがした。手汗が
西園が、ここで初めて目に怒りを
「答えられないんなら、ずっと黙ってろよ。この偽善者」
「アリサ」
「何?
星原は小刻みに震えていた。それでも目だけは
「もう、分かったから。
西園は顔に失望を
「……やっぱり夏希も、こいつと同じ考えなんだね」
「アリサの言ってることは、分かるよ。先のことまで考えてて、さすがだなって思う。けど、
絞り出すような声で言って、それに、と星原は続ける。
「なりたい自分になるのって、すごく素敵なことだと思うから。私は、応援したい」
その言葉を最後に、重い沈黙がのしかかった。
西園は瞬きすらせず、冷たい目でじっと星原を見つめている。まるでナイフの切っ先を向けるような視線。それでも星原は、目を
最初に沈黙を破ったのは、西園だった。
「……そう」
ナイフを
「夏希は私の友達だから、これ以上は何も言わない。けど……紙木」
初めて西園が俺の名前を呼んだ。
西園はこちらを見るなり、険しい目つきで、
「あんたのことは、絶対に認めないから」
そう言って、俺たちに背を向けた。
西園がファミレスから出ていった途端、星原が水面から顔を出したように息を吐いた。
「っはー、怖かったぁ……」
だが俺は、今も心に荒波が立っていた。西園の発した言葉が、
星原が顔を上げ、こちらを向いた。
「紙木くん、大丈夫? 顔色よくないよ」
俺はハッとする。
「ごめん、大丈夫。それより、
「全然いいよ。それより……アリサに言われたこと、あんまり気にしないでね?」
「ああ……」
と
そんな俺の心境を察したのか、
「アリサにはアリサの考えがあって、それがたまたま、私たちと違ってただけなんだよ。アリサの言ってたことも、
その言葉に、俺は少しだけ胸が軽くなる。だが同時に、結局はそれも
「しっかしまぁ、ガチモードのアリサに立ち向かえる紙木はすごいよ」
「なっきーも言ってるけど、正しいとか間違ってるとか、あんま気にしなくていいと思うよ。ほら、この前授業で習ったじゃん。神の見えざる手、だっけ? 一人ひとりが自分の目標に向かって進めば、それが全員のためになる、ってやつ。だからさ、紙木も好きなようにしたらいいんじゃない? それがたぶん、
そう思うよね? と真島が
「ん、まぁ、そうね」
「あれ、なんか
「そういうわけじゃないけど……」
椎名は俺と星原を交互に見たあと、少し目を伏せた。
「……アリサは、やっぱり強いなと思って。なんにでもバカみたいに真剣だし、一度決めたら絶対に折れない。ああいう一本気なところは、正直、ちょっと
俺は、自戒を込めて頷いた。
「それは、そのとおりだ」
星原と真島も、表には出さないが椎名の言葉を肯定しているだろう。たぶん二人とも、西園の発言が一つの正論であることを、理解している。
途端に、俺は横になりたくなった。もちろんそれは、星原に寄りかかりたいから、とかそういう
突然、パン、と
俺を含めた三人が星原に注目すると、彼女は口を開いた。
「勉強会、始めよっか」
それから当初の目的に沿って、テスト勉強を始めた。一応は俺のために開かれた勉強会なので、俺が分からないところを挙げ、それを周りが教える、という形で話は進んだ。
途中で
八時を目前に、俺たちは解散した。ファミレスを出たあと、それぞれの帰路に着く。
自転車で俺は家を目指す。もうすっかり夜だった。
ファミレスを出てから、脳内で
繰り返すうちに、西園の言ったことはまったくもって正しいと思うこともあれば、ただ暴論を振りかざしているだけにすぎないと思うこともあった。二つの考えの間で揺れているうちに、俺は自分を見失いそうになる。
星原も、真島も、椎名も、そして西園も、ちゃんとした自分の考えを持っている。俺だけだ。俺だけが、宙ぶらりんのまま動いている。それがひどく情けなくて、恥ずかしかった。
ふと、真島の言葉を思い出す。
──
俺の好きなように。
俺は、自分がどうなることを望んでいるのだろう。
そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、正面から歩いてくる男女の二人組が目に入った。腕を組んで、楽しそうに
そのカップルとすれ違うまであと数メートル、といったところで、俺はあることに気づく。
片方の男子は、
二人とすれ違い、少ししてから、俺はブレーキをかけて振り返った。
長身で、後ろ姿でも分かるちょっと長めの髪。やっぱり、世良にしか見えない。
なら、隣にいるあの女の子は世良のなんなんだ? 少なくとも、以前、駅前でキスをしていた女子ではなかった。駅前で見た子は髪をおさげにしていたが、さっきの子は、どう見ても肩までしか髪がない。
俺は不穏な胸騒ぎを覚えた。同時に、
俺は自転車を押して歩き、二人をこっそり尾行する。二人とも俺に気づいていないようで、一度もこちらを振り返らなかった。
やがて二人は
帰宅ラッシュを過ぎたものの、まだ人通りの多い改札の前で、二人は足を止める。
向かい合う二人。会話が止まり、無言で見つめ合う。人混みのなかで、そこだけが世界から切り離されたみたいに雰囲気が違う。
俺はすさまじい既視感に襲われる。まさか、と思ったら。
世良は、やっぱりその子にキスをした。
今度は一〇秒くらいの、わりと濃厚なやつだった。
顔を離すと、女の子は
こちらに歩いてくる世良と、俺は目が合う。しかし世良は、すぐなんでもないように視線を前に戻し、俺の横を通り過ぎた。
「おい」
俺は振り返って声をかけた。だが世良は振り向かない。だからあとを追いかけ、手を伸ばした。世良の肩を
ようやく世良が振り向く──というか、俺が振り向かせた。
「何?」
世良はこんなときでも笑顔を崩さなかった。保身のためにへらへら笑っているふうでも、俺の突飛な行動に引いているふうでもない。この笑顔が、たぶん世良にとってのポーカーフェイスなのだ。
「今の、なんなんだ」
「今のって?」
「さっき……女の子とキスしてただろ」
「してたね」
世良は平然と認めて、
「で、それがどうかした?」
と、本当に何が悪いのか分からないように続けた。
「お前は、すでに他の子と付き合ってるだろ。それに、
「あれ、よく知ってるね──あっ」
「君、コンビニの前で話した人じゃん。奇遇だね」
なぜか世良は
「笑ってごまかそうとするなよ。お前、本当に汐と付き合う気があるのか?
「あー、うん、ちゃんと説明するよ。とりあえず、どっかの店にでも入らない? 立ち話もなんだしさ」
「いいから、答えろよ」
言ってから、俺は初めて自分が怒っていることに気がついた。
決してこいつに気を許してはいけない。本能がそう告げている。
「でも、ここだと人目につくぜ。通行人の邪魔になってるし、話の途中で駅員さんに注意されるかも。それは君にとっても不本意ではないかな?」
気に食わないが、言われてみればそのとおりだった。
人目は気になる、だがこいつの言うことには従いたくない。だから間を取って、俺は切符売り場の横にあるベンチを示した。
世良は
「それで、どうなんだ」
「付き合う気があるかどうか、って話だよね。もちろん、あるよ。何度も言うのは恥ずかしいけど、僕はほら、汐のことが好きだし」
「でも、お前には他に好きな子がいるんだろ?」
「うん。さっきの子も、以前駅前でキスした子も、汐と同じくらい愛してるよ。だから今も付き合ってる。これってそんなにおかしなことかな?」
平然とのたまう世良に、怒りがこみ上げてくる。
「おかしいに決まってるだろ。そんな簡単に、何人も平等にあ……愛せるわけがない。絶対、いつか
「ずいぶん汐のことを考えてるんだね。まるで保護者だ」
「ただの
ぴく、と世良の
「ああ、そうかそうか。君が、あの
「そんなこと、今はどうでもいい。それより、どうなんだ」
「取り下げないよ」
「たぶん咲馬は、好きになっていい人は一人まで、っていう考え方に
「別に好きになるのは勝手だよ。でも、付き合うなら話は別だ。もしお前に何人も彼女がいることを汐が知ったらどう思うか……言わなくても想像つくだろ」
「でも、僕は」
「バレないようにしてる、とか言うなよ。二度も俺に見つかってる時点で、なんの説得力もないからな」
「最後まで聞きなって。もうバレてるよ。ていうか自分から話した」
俺は目を見開いた。
「……なんだって?」
「咲馬の言うとおり、いつかバレちゃいそうな気がしてたからさ。昨日、汐に言ったんだ。僕には彼女がいるけどそれでもいい? って。真剣に説明したら、汐は分かってくれたよ。学年一位を取りさえすれば、約束どおり付き合うってさ」
俺はめまいがした。
「
「嘘じゃないよ。なんなら今から電話してみる? 別に君がしてもいいよ」
世良の話し方も、その薄っぺらな笑顔も、すべてが嘘くさいが、今の発言だけは本当のように聞こえた。冷静に考えても、そんな簡単にバレるような嘘をつくとは思えない。
けど、認めたくなかった。脳が、耳が、拒否反応を起こしている。
「いや、それでも……ダメだろ。いくら本人が許容しても、そんな不倫みたいな
世良は鼻で笑った。
「許されるわけがないって、誰に? ひょっとして君にかな? 保護者でもないただの
「汐がよくても、お前と付き合ってる他の女の子が
「うん、まだしてないよ。でもそれは君とはまったく関係ない話だよね。正直、汐のことも幼馴染ってだけで君とは無関係だ。こうして説明してやってるのは、純粋に僕の善意なんだぜ」
「何が善意だよ。お、お前は……」
声が震える。口の中が乾いて、舌が
「まぁ
「……何が、博愛主義者だ。お前の言ってることは、とにかく薄っぺらいんだよ。俺には到底、お前が三人とも平等に、あ、愛してるとは思えない」
「そんなこと言われてもなあ。どれくらい好きかなんて証明できるもんじゃないでしょ。ていうか君は学校での僕を知ってるんだよね? だったら僕が、どれほど人に好かれる努力を惜しまない人間か、よく分かってるんじゃない?」
「あんなの……ただ、
「同じ意味だよ。そもそも媚を売ることの何が悪いのかよく分からないな。相手の機嫌を取る代わりに、それ相応の好感を得る。極めて健全でフェアな取引だ。誰も
「違う! 誰が、お前なんか。俺はただ
「僕だってそうさ。
聞き慣れない名前。おそらく
「……おい、ちょっと待て。今、四人いたぞ」
「そうだよ? 好きな子は四人いるんだ。レイカちゃんは高校を卒業して、今はフリーターをやってる。アミちゃんは隣町に住んでる高校一年生で、喫茶店巡りが趣味なんだ。ソラちゃんはまだ中学生なんだけど、
「お前……中学生にまで、手を出してるのか」
「手を出すって言い方、嫌いだな。僕は真剣にお付き合いしてるよ。心から彼女を愛してる」
俺は吐き気がした。猛烈に頭の中がぐるぐるする。寒くもないのに歯がカチカチと鳴り、手汗が異様に出てくる。
俺は乾ききった
「……気持ち悪い」
と、世良を
世良は怒りも悲しみもせず、どころか「あははっ」と盛大に吹き出した。
「ひどいこと言うね? 君が理解できないからって、僕を非難するのはやめてほしいな」
言ってからも、世良は楽しくてたまらないように笑い続けた。
俺は黙っているしかなかった。もう俺が何を言っても、醜い悪あがきのようにしかならない気がしていた。
ひとしきり笑ったあと、世良は
「で、まだ続ける?」
結局、あれから何も反論できず、世良とは別れた。
家に帰ってからも頭の中はぐちゃぐちゃで、しばらく何も考えられなかった。
それでも、一つだけ決意したことがある。薄い布団にくるまって、
俺は、世良に学年一位を取らせない。それは汐のためであり、
*
とうとう定期考査を明日に控えた水曜日。
四時間目が終わり、俺は一枚のプリントを持って職員室を訪れた。
テスト期間中は、生徒が職員室に入ることを禁止されている。とはいえそこまで厳格に決められているわけではない。入り口で用のある先生に呼びかける程度なら許されていた。
俺は職員室に入ってすぐのところにいた先生に「
俺はプリントを差し出す。
「これ、進路希望調査です。出すの遅れてすみません」
進路に迷っていたわけではない。テスト勉強にかかりっきりで、提出を忘れていたのだ。
伊予先生は調査票を受け取ると、軽く目を通して「うん」と
「妥当な進路だと思うよ。けど、もうちょっと上の大学を目指してみてもいいんじゃない? ここんとこ熱心に授業を受けてるみたいだし。まだまだ成績伸びるでしょ」
「……ん、そうですね」
ついあくびが
「なんか、眠そうだね?」
伊予先生が苦笑いを浮かべる。実際、そのとおりだった。
月曜日──
すべては世良に一位を取らせないための努力だ。スタンスがあやふやだった俺にとって強烈なモチベーションができたのはいい傾向なのかもしれない。かといって、世良に感謝するつもりは一ミリもないが。
俺が
「
「え?」
「仲いいんでしょ? 最近、一緒にいるところをよく見かけるから」
「ああ……や、どうでしょうね。たしかに、汐がああなってからよく話すようにはなりましたけど、上手くやれてるかどうかっていうと……」
正直、微妙なところだ。表面上は仲がいいように見えても、正確にコミュニケーションを取れている自信はない。汐は何か本心を隠している感じがするし、俺のほうも汐に内緒で一位を取る計画を進めている。これを「上手くやれてる」とは、たぶん言えない。
伊予先生は困ったように笑う。
「やっぱいろいろ複雑だよねえ。ただでさえセブンティーンって面倒くさい年頃だし」
「俺まだ一六ですよ」
「細かいことはいいの。いちいち揚げ足取ってたらモテないぞー?」
余計なお世話だよ、と思う。
「ま、
この学校、頭固いの多いから。
伊予先生は、周りに聞こえないくらいの声量でそう
「……大変なんですね」
「そりゃそうよ。ただでさえテストの準備とか夏休みの宿題とか部活のあれやこれやで忙しいのに、生徒一人ひとりの面倒まで見なきゃいけない。激務だよ、激務。好きじゃなきゃ、とっくに投げてる」
そう言うと、伊予先生は短くため息を
「……汐は、今どき珍しいくらい素直でいい子なんだよね。なんでもできちゃうわりに
「……そうですね」
俺はしみじみと
それから少しばかりの沈黙を挟んだあと、伊予先生は思い出したように「やばっ」と声を上げた。
「長話してたら
「昼飯カップ麺ですか?」
「そうだけど」
「質素っすね」
「うるさいよ。先生だってねぇ、お弁当とか作ってた時期があったんだよ。君には分かんないかもしんないけど毎朝お弁当作るのってすごく大変で──」
「伸びますよ、麺」
「うわなんかすごい適当にあしらわれた気が……まぁいいや。じゃ、先生は戻ります。紙木も無理ない範囲で頑張ってね」
「はい」
俺は
職員室を出て廊下を進む。特別棟の二階はひっそりとしていて、隣の校舎から生徒たちの
歩きながら、先生も先生で大変だな、と改めて思う。
渡り廊下へ進もうと、俺は左に曲がった。そのとき、あ、と二つの声が重なる。
汐と鉢合わせた。今は一人だった。互いに足を止め、俺は口を開けたまま次の言葉を探す。
ふと、汐の手に一枚のプリントがあることに気がついた。
「汐も、調査票を出しに行くのか?」
「うん。
「ああ。さっき出してきた」
「そっか、一緒に行けばよかったね。
世良。その名前が汐の口からさらっと出てきたことに、俺は
昨日のことを思い出す。汐は、世良に彼女がいると知ったうえで条件を満たせば付き合うと約束している。それをまだ、俺は汐本人に確認していない。世良の言ったことを事実だと認めるのが、
汐は
「じゃあ、行くよ」
「あ、汐」
先へ進もうとする汐を、俺はほとんど無意識に呼び止めた。
汐は足を止め、不思議そうに俺が
「どうかした?」
心配そうに声をかける汐。俺は、
「……世良は、ろくなヤツじゃないよ。あいつ、すでに何人も彼女がいるんだ」
その言葉は、俺の思考や話の順序を無視して、勝手に口から流れ出た。だが失言をした意識はなかった。むしろ、それこそが本当に自分の言いたかったことのように思えた。
汐は、特段驚きもせず口を開く。
「知ってるよ」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走った。
信じられなかった。それでも、まだ何かの間違いじゃないかと期待して、言葉を紡ぐ。
「じゃあ、そのうえで条件を満たせば付き合うっていうのも……」
「本当だよ。それは、世良から聞いた話?」
俺はひどく動揺しながら、
世良の言ったとおりだった。まだ付き合うと決まったわけではないが、汐は世良の
顔を
「
「どうって……。あんなヤツ、やめとけよ。正気じゃない。彼女がいるのに他の人にも告白するなんて……普通に考えて、おかしいだろ」
「ぼくも話を聞いたときはそう思ったよ。でも、
「汐は、それでいいのかよ」
「ああ。たしかに世良はろくでもないヤツかもしれないけど、あいつは、正直なんだ。だから変に気を使わなくていいし、一緒にいて楽なんだよ」
俺は
「……意味分かんねえよ。好きでもないのに、付き合ってどうすんだよ。そんなの時間の無駄だ。どうせあいつは、すぐ飽きて他の女の子を口説き始めるよ。今のうちに断っといたほうが絶対いいって」
「すぐに飽きられても、ぼくは構わない。……男と付き合う経験は、一度くらいあったほうがいいと思うし」
「でも!」
「咲馬はどうしてそんなに怒ってるの?」
冷静な指摘に、俺は押し黙るしかなかった。
怒っていない。そう答えたかった。でも、俺の胸にわだかまるこの不快な感情は、たしかに、怒りとしか形容できないものだった。
──俺は、なんで怒ってるんだ?
分からなかった。いや、分かっているのに、それを言語化することを無意識に避けているのかもしれない。
そして、ようやく一つの核心にたどり着いた。
「俺は……世良に、汐を渡したくない」
なんてことない、それはただの独占欲だった。
恥ずかしさで顔が発火しそうになる。もう逃げ出したかった。
「じゃあ、仮にぼくが
俺は息を
「それは……」
そこから先に、言葉が続かなかった。
くしゃ、と汐の握る調査票が音を立てる。周りが静かでなければ、聞き逃していただろう。だがその小さな音から、計り知れない失望を汐から感じ取った。
「……無理しなくていいよ。咲馬は、
胸が痛くなるくらい、汐は優しく
「ごめん。調査票、出さなきゃだからさ。もう行くよ」
返事を待たずに俺の横を通り過ぎ、職員室へ向かった。
「汐」
呼び止めると、汐は足を止めた。だが、振り向かない。俺は構わず続ける。
「俺は……とにかく、自分にできることをやるよ」
「……勝手にすれば」
汐は再び歩みを進めた。
どこか悲しそうな汐の背中をしばらく見つめてから、教室へ向かう。
定期考査は、いよいよ明日からだ。
*
木曜日、定期考査初日。
いつもより早めに登校した。あくびを
その中に、汐と
そこから視線をずらしていくと、派手な女子が目に入った。
俺も席に着き、ノートを広げた。
今一度、テストに出そうな英単語を頭になじませていると、そばに人の気配を感じた。顔を上げて隣を見ると、
「気合い入ってんね」
蓮見は相変わらずの無表情でそう言った。
「ああ。今回は今まで以上に本気だ。満点、目指してるからな」
「もしかして、
「いや、そういうわけじゃないけど……」
本当はそのとおりだが、口に出して認めるのは
蓮見は大して興味がなさそうに「まぁ、別にどうでもいいけど」とあっさり話を流す。
俺はなんだか
「蓮見は他人に関心があるのかないのか分からんな」
「普通にあるよ。たぶん、人並み以上に。でもあまり関わりたいとは思わないな」
「人間観察が趣味、ってやつか」
「そうかも。なんか、透明になって人の会話をひたすら傍聴してたい気持ちがあるんだよね。受信だけしておきたい、っていうか」
「
「だって、深く踏み込むとめんどくさいでしょ。人間関係って」
ふむ、と俺は神妙に
たしかに蓮見の言うとおりだ。人間関係は面倒くさい。それはここ数日、
あの日──放課後の教室で
ただ、それでも……あの日の前に戻りたいと思ったことは、一度もない。
予鈴が鳴るとともに、英語の先生が教室に入ってきた。
クラスメイトたちが一斉に着席すると、先生は「机の中を空っぽにしておくように」と呼びかけた。そして一番前の席の生徒に、裏返しにした問題用紙を配り始める。
「まだ表にしないように」
先生が言った。
問題用紙と解答用紙が全員に行き渡ると、教室は静かになった。シャーペンが机の上を転がる音、誰かの
一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。
「では、始め」
一心不乱にシャーペンを走らせた。
英語は暗記科目だ。少なくとも俺はそう思っている。だから記憶が鮮明なうちに、一つでも多くの問題を解いていく。
順調だった。
カッカッ、とシャーペンの先端が紙面越しに机を
一五分も
さすがに英語の長文はノータイムで解けない。ペン先で英文をなぞりながら、頭の中で翻訳していく。すらすら読める、とまではいかないが、理解して読み進められた。
そこに記されていたのは、ある先人の体験談だ。
とある自動車工場でミスが発生したので、再発を防ぐようチェックを厳重にした。するとそのチェック作業が工程を圧迫し、かえって作業員のミスが増えた……という話だ。
『起こり得ることは、いつか必ず起こる』
『だが準備のしすぎが
そんな教訓で話は締められている。特に面白くもなんともない内容だが、自分で訳すと
個人的な見解もほどほどに、俺は解答用紙の空欄を埋めていく。文章は理解できていたので、解くのに苦労しなかった。
俺はペンを置く。
すべての空欄が埋まった。分からないところは、一問もなかった。
──これは、ひょっとして満点なのでは?
自信が胸にみなぎる。
それから終了を告げるチャイムが鳴るまで、見直しを続けた。
その後の化学と古典も、順調そのものだった。満点かどうかは分からないが、いずれも九〇点以上は確実にある。過去問とほぼ同じ構成で、問題も似通っていたのが助かった。
初日は三科目だけだ。だから今日のテストはこれで終了。あとは帰るだけとなる。
教室にはどことなく敗戦ムードが漂っていた。精神的に疲弊し、嘆息したり机に突っ伏したりするクラスメイトが何人も見られた。
「やべー」「マジで死んだ」「全然分かんなかったんだけど」「てかあの問題分かった?」
そんな声がいたるところから聞こえてくる。
「
クラスメイトの悲鳴に耳を傾けていたら、
「ああ、お疲れ。テスト、どうだった?」
「いや~、あっはっは」
星原は空虚に笑った。それは自信から
「まぁ、私のことはともかく。紙木くんは?」
「ん、結構できたよ。今日の三科目に関しては、期待できる」
「おお、すごい! それは頼もしいね」
今度は
とはいえ。世良の一位を阻止したいのは、俺も同じだ。今は難しく考えず、素直に喜んでおこう。
「明日は数学だね。分からないところはもうない?」
「大丈夫。前にやった勉強会のおかげで、ある程度の対策はできてるよ」
「いいねいいね。このまま突っ走ろう!」
星原が元気に声を上げると、それ以上の声量で「みんなお疲れ!」と聞こえた。扉のほうを見ると、世良が立っていた。思えば世良が教室にやってくるのは、今日はこれが初めてだ。
世良は周りのクラスメイトに「いやあ大変だったね」「お疲れ~」などと声をかけながら
「おっ、咲馬じゃん。なんだ、汐と同じクラスだったんだ?」
今まで気づかなかったのかよ。
世良は進路を変えて俺のもとへやってくる。基本、世良は誰とでもフレンドリーに話すので、他のクラスメイトが俺たちを気に留める様子はなかった。
「テストお疲れ。ガム食べる?」
「いや、いいよ別に……」
「えー、そう? おいしいのに」
そう言って世良はポケットから板ガムを引き抜き、銀紙を外して口に含んだ。
「や~私は全然……ちょっとやばいかも」
困ったように笑いながら答える
「じゃあ、僕が教えてあげようか?」
と軽い調子で提案した。
俺はぎょっとする。世良が星原に勉強を教えるなんて……そんなの、ダメに決まっている。
「せ、世良はどうだったんだ?」
星原が答えるよりも先に、俺は世良に
俺の割り込みに、世良はほんのわずかに目を見開き、だけどすぐ、またいつものへらへらした笑顔に戻った。
「そりゃあもう楽勝だよ。なんてったって目指すは一位だからね、当然でしょ」
「……ずいぶん、自信あるんだな」
「前はもっといい高校に通ってたからね。ま、
なんとも憎たらしいセリフを吐いて、世良は
「
星原が
俺は力強く
今日も帰ったらテスト勉強に打ち込もう。明日の鬼門は数学だ。今一度、公式を頭に
やってやるぞ。
と、やる気満々だったにもかかわらず、テスト二日目は最悪のコンディションで迎えた。
やる気満々だったのがまずかったのかもしれない。昨夜は遅くまで教科書と
それだけならまだよかった。
ひどい頭痛がしていた。おまけに
夏風邪だ。
普段なら先生に連絡して学校を休んでいるところだ。だが今日と明日ばかりは、簡単に休むわけにいかない。
……いや、休んでもいいのか? テスト当日に学校を休んだ場合、どうなるんだっけ……。
風邪が治ったら個別でテストを受けられるのだろうか。もしそうなら休みたい。身体がだるくて仕方がなかった。
迷った末、俺は学校に電話をした。先生がいるかどうか不安だったが、一年生の先生が出てくれた。
『見込み点』、というものを俺は説明された。
テスト当日に学校を休んだ場合、今まで受けたテストの平均点が、そのまま今回のテストに反映されるらしい。ただ、診断書の有無や内申によって、そこから引かれることもあるんだとか。
つまり、簡単にいえば。今日、俺が学校を休んだら、確実に数学のテストで九〇点以上は取れない。精々六〇点とか五〇点くらいだろう。他の科目もそれくらいの点数になる。
それは、ダメだ。一位を取れなくなる。
俺は電話を切り、風邪薬を飲んで学校へ行く準備を始めた。
外の空気を吸えばちょっとはマシになるんじゃないだろうか、と期待したが、当然そんなことはなかった。どころか学校に着く
教室の
こんなので、テストに集中できるのか?
不安で胃がキリキリと痛む。ついでに吐き気もしてきた。朝ごはん、抜いてくればよかったかもしれない。どうしてこんなときにかぎって風邪なんか……いや、こんなときだからか。
ここ数日の、寝不足とテスト勉強のストレス。それがキャパシティを超えて、風邪という形で現れた。いわば俺の自己管理不足。だが後悔しても遅い。とにかく今は数学を……。
「──くん──、
ハッと頭を上げる。
すぐそばに
「だ、大丈夫? なんか、顔が怖くなってたよ」
「あー、ちょっと風邪気味で……」
「え、そうなの? 熱は計った?」
「うん、まぁ、一応」
何度? と
「休んだほうがいいよ」
「いや、それはダメだ。テストの点が落ちる」
「でも……」
「平気だって。明日で終わりだし、なんとか──」
「……
「いや……ははは」
とりあえず笑ってごまかす。
途端に、星原は
星原は手に持っていたものを俺に渡す。それは三つのポケットティッシュとミルキーのキャンディだった。
「これ、あげるよ。役に立つかは分からないけど……ないよりマシだと思う」
じん、と胸が熱くなった。
「ありがとう、星原。ティッシュ、持ってきてなかったから助かるよ。あと
礼を言うと、なぜか星原は悲しそうに目を伏せた。
「無茶なお願いしといて、これくらいしかできなくてごめんね……。ほんと、
「星原……」
やばい、泣きそう……。弱り目に優しい言葉は本当に効く。
たとえ星原の優しさに
俺は星原に笑ってみせる。
「大丈夫だ。それに、お願いとか汐とか抜きにして、今は一位を取りたいんだ。だから、最後までやるよ」
「……分かった。じゃあ、私も期待しとく。でもほんと無理しちゃダメだからね!」
星原も笑顔で答えて、自分の席に戻っていった。
さて。気合いを入れていこう。
今日最後の科目、世界史のテストが終わった。
解答用紙を前の人に回した途端、糸が切れたみたいに俺は力尽きる。
め、めちゃくちゃしんどい……。風邪薬、全然効いてないんだけど……。
背中が汗に
帰り支度を済ませて重い腰を上げた途端、
テスト三日目。
昨日は早めに床に就いたものの、回復の
もちろん、学校には行く。今日で最後なのだ。今日さえ頑張ったら、夏休みまで学校を休んでもいいとさえ思っている。だから、今日だけは全力で無理をする。
効かないだろうと思いながらも風邪薬を飲み、俺は支度して家を出た。
外に出た途端、容赦ない
親は仕事で俺と彩花よりも先に家を出るので、送迎してもらうことはできない。だから一人で頑張るしかなかった。庭先の自転車を引っ張り出し、俺は学校へと向かう。
ペダルが重い。意識が
昇降口を抜けて、廊下を進み、教室に入る。
自分の席に着いてぼーっとしていたら、カチャン、と音がした。前の人がシャーペンを落としたようだ。物理の先生がこちらにやってきて、前の人の代わりにシャーペンを拾う。
──あれ? テスト、もう始まってる……?
俺はハッとする。同時に、先生が教室に入ってきたこと、テスト用紙が配られたこと、チャイムが鳴ったこと……それらの記憶が、一瞬で
ぶわ、と頭皮から汗が噴き出す。
やばいやばいやばい。完全に意識が飛んでいた。テストはもうとっくに始まっている。
俺は机に視線を落とす。そこには白紙の解答用紙がある。次に時計を見る。すでに物理のテストが始まってから一五分も
慌てて名前を記入し、俺はテストに取り掛かった。シャーペンのグリップが、汗でぬるぬるする。
長文の問題を読むのが
問題が頭に入ってこないことにイライラする。焦りが筆圧を高め、シャーペンの芯がすぐに折れる。テスト終了まで残り一〇分しかない。テストはまだ半分も解けていない。
俺は自分の両
瞬きすら惜しんで問題を解いていった。鼻が詰まり、フーフーと獣のような呼気が口から
最後の空欄を埋める。
同時に終了のチャイムが鳴った。
解答用紙を前の人に回し、俺は机に倒れ込む。
──気持ち悪い。
二時間目。地理の問題を解きながら、今日何度目か分からない弱音を心の中で吐いた。
頭痛と吐き気が治まらない。汗で問題用紙が腕に張り付く。朝食のトーストとバナナがドロドロになって、胃の中を旋回している感じがする。
本当に気分が悪い。無限に弱音が
──気持ち悪い。
突然、
ひどいよな、と思う。
何が気持ち悪いんだよ。普通に似合ってるだろ。そりゃまぁ
大体、気持ち悪いっていうなら、
彼女が何人もいて、そのなかには中学生もいて、さらに汐にまで手を出した。不純を煮詰めたような男だ。どうして汐が、そんなヤツと一緒にいられるのか理解できない。
……あれ?
西園が汐に言った『気持ち悪い』と、俺が世良に言った『気持ち悪い』。
これ、なんも違わなくない?
地理のテストが終わり、一瞬のような休み時間を挟んで、現代文のテストが始まる。
定期考査、最後のテスト。これさえ乗り切ったら、長い苦行から解放される。なのに、二時間目に
だから、熱っぽい頭で考えてみる。
俺と
いいや、違う。違うに決まっている。西園のはただの
何も思い浮かばない。熱があるから頭が回らないだけか? いや、そんなはずはない。だって、明らかに違う。違うはずなのだ。何が違うのか、説明できないだけで……。
──もしかして、同じなのか?
『理解できないものを攻撃して私のことも受け入れてって、バカじゃねえの』
『君が理解できないからって、僕を非難するのはやめてほしいな』
かつて俺が西園に言ったこと、そして
程度の差こそあれ、その二つの発言に至るまでの経緯は似たようなものだ。十分な根拠もなしに他者を悪く考え、
そこになんの違いがある?
……ない。同じだ。
俺も西園も、自身の理解できないものを
なら、俺は。
俺は、結局、偏見まみれの排他的な田舎者でしかなかったのか?
なんだよ、それ。
認めたくない。認めたくない、けど、認めざるを得ない。ここで認められなかったら、本当に手遅れな気がした。
クソ。急に恥ずかしくなってきた。なんで。なんでこんなタイミングで気づくんだ? 別に今じゃなくていいだろ。今テスト中だぞ。そうだ。早く問題を解かないと。でも。ああ。クソ。熱と後悔で頭ん中がぐちゃぐちゃだ。俺は。なんて浅はかだったんだろう。
──でも。
それでもさぁ。
やっぱり、気持ち悪いもんは気持ち悪いよ。
チャイムが鳴る。
定期考査の全過程が終了した。
*
定期考査が終わった日の午後。俺は地元の内科を訪れた。
やはり、無理して登校していたのがまずかったらしい。お医者さんに「無理しすぎると死ぬよ」と
帰宅してからは、自室で抜け殻のように過ごした。定期考査ですっかり気力を使い果たし、ベッドから起き上がることすら
それでも、夜に
『ほんっとうにお疲れ様! 走り切ったね、
「はは……たしかにそんな感じだったな。ほんと、死ぬかと思った。実は何を書いたのかもよく覚えてないんだ」
『そ、そんなに極限状態だったの?』
「ぶっちゃけギリギリだった。だから……申し訳ないんだけど、世良に勝てるかどうかは分からない」
正直にテストの手応えを伝えると、星原は「いいよいいよ!」と慌てた様子で返事をした。
『むしろそんなに頑張ってくれるとは思わなかったよ。ほんと無茶ばかり言ってごめんね……。紙木くんは、私に何かしてほしいことある?』
急な提案に、心拍数が上がった。
無数の『星原にしてほしいこと』が頭に浮かぶ。長考の末、俺は最も無難な候補を選んだ。
「ほ」
『ほ?』
「本の、話をしたいかなー、なんて……。この前、星原に薦めたやつとか。もし読んでたらだけど」
『えー、そんなことでいいの? それくらいお安い御用だよ! けど、まだ一冊目の半分くらいしか読めてなくて──』
と言ったものの、その半分までの内容を糸口に、
それから数日が
日に日に暑さが増すなかで、俺の体調はすっかり回復していた。死にそうな気分で定期考査を受けていたあの日が、今では懐かしいとすら思える。
今日は一学期の終業式だ。
蒸し暑い体育館に、
定期考査のテストは、すでに全部返却されている。俺のテストはいずれも九〇点以上あった。学年順位では間違いなく
ただ、
だがそれも今日、はっきりする。
「──では、これにて終業式を終わりにしたいと思います」
校長先生の話が終わった。
このあと、教室に戻ったら通知表とともに個人成績表が先生から配られる。自分の学年順位が明らかになるのだ。
ドキドキしてきた。世良が一位を逃せばそれでいいのだが、やっぱり、ここまで来たら俺は一位を取りたい。
教頭先生の号令で、俺たち二年の生徒が退出し始める。人数に比べて体育館の扉はやや狭く、出入り口付近は人が混み合っている。
とすん、と俺の肩に誰かがぶつかってきた。
「あ、ごめん──」
と先に謝ってきた人物は、
ぶつかったのが俺と知るやいなや、汐は驚いたような顔をする。だがすぐ気まずそうに目を
俺はちょっと悲しい気持ちになる。
定期考査が終わってから、汐に避けられていた。汐は世良とも星原とも普通に話すのに、俺にだけは距離を置く。
理由は、なんとなく察している。たぶん、以前の「
テストの結果だけではなく、こちらも憂慮している問題だった。なんとかしなければ、と思うのだが、具体的な解決策は思いついていない。
明日から夏休みだというのに、気が重かった。
教室に戻ると、少しして
「はい! 明日から夏休みだね!」
壇上で伊予先生は元気にそう言う。
「いやー、いろんなことがあったね。みんなにとってこの一学期は楽しかった? それとも
べしん、と伊予先生は教卓に置いた紙の束を
それが通知表と──そして定期考査の成績表であることは、誰の目にも明らかだ。
「お待ちかね、通知表と成績表を配ってくよ!」
一気に教室が色めきだつ。期待と不安の混じった声が、あちこちで上がった。
あ行のクラスメイトから名前が呼ばれる。俺は八番目だ。順番は、あっという間に回ってきた。
「
俺は席を立ち、教卓の前に向かう。
先生は俺の目を見てニッコリ笑った。
「紙木、よく頑張ったね」
通知表と、裏向けにされた成績表を受け取り、俺は席に戻る。
心臓がバクバク鳴っている。
一度、大きく深呼吸して、俺は成績表を表にした。
「……え?」
学年順位の欄を見てみると、『1/214』と記されていた。
俺は目をこする。それでも『1/214』の事実は変わらなかった。クラス内順位の見間違いでもない。当然、これは出席番号八番、紙木咲馬の成績表で、他の人と取り違えてもいない。
えー、じゃあ、マジで一位? これ……うわ、マジだ。え、やば。
成績表を配り終え、先生が何か
「起立」
学級委員長が号令し、俺は少し遅れて立ち上がる。そしてみんなと
「
俺は顔を引きつらせながら、星原のほうを見る。
「い、一位……だった」
声に出して初めて、そうか、俺は一位を取ったんだな、という実感が
星原は心底驚いた様子で口元を手で押さえ、その場でバタバタ足踏みした。
「えっ、すっご! やば! ほんとに一位!? めちゃくちゃすごいじゃん紙木くん!」
「いや、あはは……」
子供のようにはしゃぐ星原の声が、教室に残るクラスメイトたちの視線を引き寄せた。そして俺のテスト結果が周囲に
「え、紙木が一位?」「へー」「紙木って頭いいの?」「ていうか
少しの驚きと、落胆が入り混じった話し声が聞こえてくる。
俺は今になってあることに気がついた。
俺が一位ということは、つまり、世良は一位ではない。
「みんなごめん! 一位、取れなかった~!」
どんまい、とか、次も頑張れ、とか、そんな言葉が世良に投げかけられる。クラスの雰囲気から察していたが、みんな世良に一位を取ってほしかったようだ。どうせ「そのほうが面白いから」みたいな軽い気持ちだろうけど。
世良は教卓の前で足を止めると、なぜか俺のほうを向いて、こちらに近寄ってきた。
「やあ、
星原が軽く肩を
「私は全然……だけど、紙木くんすごいんだよ。なんてったって一位だからね!」
まるで自分のことのように胸を張る星原。自分で言うのは少し恥ずかしかったので、代わりに伝えてくれて助かった。
さすがの世良も、少しは悔しがる様子を見せるだろう。と思ったが、これでもまだ、世良のポーカーフェイスを崩すには至らなかった。
「へ~~~! すごいじゃん。そんなに勉強できるんなら教えてほしかったよ~」
期待に反して、
「なあ、世良」
「ん?」
「この前、気持ち悪いとか言って悪かったな」
これが、世良に言わなければならないことだった。
俺は世良の恋愛を認めたわけではない。今でも彼女が複数いるのはおかしいと思うし、そのうえで
「なんのこと?」
世良は笑顔のままきょとんと首を傾げる。どうやら覚えていないらしい。まぁ、これは予想どおりの反応だ。なかなか世良に謝る踏ん切りがつかなくて、日を空けすぎた。
「忘れたんなら別にいいよ……ところで、世良は何位だったんだ?」
「んー、僕はねえ」
そう言いながら世良はポケットに手を突っ込み、小さく折りたたまれた紙を取り出した。
もしかして成績表だろうか。世良はその紙を俺の机に置く。たしかめろということらしい。自分の口で伝えりゃいいのに……と思いながら俺は紙を広げていく。
やはり世良の成績表だった。俺は順位の箇所に目をやる。
『34/214』
世良の学年順位は三四位だった。
「え?」
つい間の抜けた声が
三四位。学年全体で見ればそう悪い結果ではない。だが一位を取るつもりで、なおかつ相当学力が高いらしい世良がこの順位なのは、理解しがたかった。隣から成績表を
理由を求めるように俺が顔を上げると、世良は「いやあ」と照れくさそうに
「なんか、最後のほうで飽きちゃって」
「は?」
「途中から問題用紙に四コマ漫画描いてた」
「……は?」
何? 四コマ漫画? 漫画を描いてた、と世良は言ったのか? なんで? 飽きたから? いやいや、そんなバカなことがあるか。汐がかかった大事なテストで、飽きるなんて……。
──ああ、そうか。なるほど。
分かった。これ、負け惜しみだ。
こいつは頭がいいとの
安心して笑いが
……けど、本当にそうだろうか。いまいち
俺はもう一度、成績表を上から見ていった。一番上に順位が記載され、そこから下は科目別にテストの点数が並んでいる。
俺は目を見開く。
まさか、こいつ。マジなのか?
本当に、途中で飽きたのか?
「ふざけてる……」
頭皮が熱を持つ。俺は立ち上がり、世良を
「お前、やっぱり
「いやいや。今回のテストはちょーっと気分が乗らなかっただけで、僕は至って大マジだよ。今回は負けちゃったけど、まだ
ふざけたことを
俺はようやく世良のことを少しだけ理解できたかもしれない。つまりこいつは、人をおちょくって相手の反応を楽しむ、ただそれだけなのだ。良識よりも自尊心よりも、好奇心を満たすことを優先する、そういうシンプルなロジックで動いているに過ぎないのだ。
ダメだ。もう、こいつのことは何一つ信用できない。どうしてこんなヤツに謝ってしまったのだろう。
「最低だよ……お前は、本当に」
「おいおい、なんてひどいことを言うんだよ。僕ほど誠実な人間はそういないぜ?」
「何が誠実だ、お前は──」
「か、
怒りが収まらないまま俺は星原を見る。彼女は周りの目を気にするようにきょろきょろしていた。
気がつくと、教室に残ったクラスメイトがみんな俺たちに注目していた。そのうち何人かは好奇心に目を光らせ、面白そうに俺と
自分の怒りが見世物になっているような気がして、途端に俺はバカらしくなった。たちまち怒りが
俺は軽く深呼吸して、世良を
「やっぱり、俺はお前のことが嫌いだよ」
「僕は結構君のこと気に入ってるけどね」
はは、と楽しそうに世良は笑う。一ミリも悪気がなさそうに世良に、
少しの間を置いて、突然、世良は降参したように両手を軽く挙げた。
「はいはい、分かった分かった。負け犬は退散するよ。これ以上、嫌われたくないからね」
そんな心配をしなくても、すでに俺も星原も世良の印象は最悪だ。
ばいばい、と何事もなかったように手を振って世良は教室を出ていく。折り目のついた世良の成績表が、俺の机に残された。
本当にたちの悪いヤツだった。一体何を食えばあんなふざけた人格が形成されるのだろう。できれば二度と関わりたくないし、
教室の空気が弛緩してきたところで、俺は首の後ろをかきながら星原のほうを向く。
「その、止めてくれて助かったよ。おかげで冷静になれた」
「う、うん。それは、いいんだけど……」
星原は落ち着かない様子で教室を眺め回している。まだ周りの目を気にしているのだろうか、と思ったが、理由はすぐに分かった。
「あれ? 汐は?」
そう、汐の姿がどこにも見当たらないのだ。も、もしかして。
「
それを教えてくれたのは、背後に立っていた
まずい。世良に時間を取られすぎた。そりゃあ、あれだけだらだら話していたら、先に帰ってしまうのも無理はない。
「た、助かった蓮見。悪いけど行くわ」
蓮見はこくりと
俺と星原はすぐさま帰りの準備を済ませた。二人で教室を出て、昇降口へと向かう。ちょうど一階に下りたところで、汐の後ろ姿を見つけた。
「あ、いた! おーい!」
……え? 逃げた?
俺と星原は顔を見合わせる。直後、星原は血相を変えた。
「お、追いかけなきゃ!」
「あ、ああ!」
同意見だった。汐を放って帰ることはできない。
俺と星原は走って後を追った。しかし曲がり角を越えたところで、汐の姿を見失う。昇降口まで進んで下駄箱を
とりあえず二人で手分けして捜すことにした。俺が特別棟を。星原が食堂と図書室だ。
俺は廊下を駆けながら、汐の行き先を予想する。
特別棟は二階には職員室、三階には文化部の部室が集中している。それより上階は屋上だが、
予想は的中する。屋上の扉の前に、汐はいた。
俺は階段を上りながら息を整え、「汐」と名前を呼んだ。
一呼吸置いて、汐は立ち上がる。そして振り返るなり、どこか険のある表情で俺を冷ややかに見下ろした。
汐が発する拒絶の気配に、思わず足を止める。だが引き下がるつもりはなかった。再び足を進め、俺は汐と向かい合う。
「汐、一緒に帰──」
「一位、取ったんだって?」
最後まで言い切る前に、汐は言った。
「
語気を荒げてまくし立てる汐に、俺は戸惑いながらも言葉を返す。
「……
「なんで世良に一位を取らせたくないの」
「それは……世良がろくでもないヤツだからだよ。教室で聞いてたかもしんないけど、やっぱりあいつ、汐のこと本気じゃなかったんだ。一位を取るとか言って、実際は三四位だったし。まぁ最初からこうなることが分かってたら、俺が頑張る必要はなかったんだけど……」
言い終わると、汐はガシガシと頭をかいて盛大にため息を
「……世良なんか、どうでもいいよ」
「ど、どうでもいいって……。最初から遊びでしかなかったんだぞ、あいつは」
「知ってたよ。
思わず肩の力が抜けた。
「なら、どうして教えてくれなかったんだよ……」
「それは、だから…………ああ、もう! なんで分かんないかなあ!」
突然、
感情の変化についていけず、俺は
「いや、分かんねえよ……ちゃんと分かるように言ってくれよ。何が言いたいんだよ、汐は」
「察しろ! このバカ!」
「だから、言ってくれなきゃ分かんねえって! 俺は汐みたいに察しがよくないんだよ!」
「
きいん、と鼓膜が震える。
みぞおちに強烈なボディブローを食らったような感じがした。鼓膜を通して伝わる汐の気持ちが、息苦しさとなって肺を圧迫する。
「
灰色の目が、ぎろりと光る。と思ったら、突然、汐は俺の胸ぐらを両手で
「何がしたいんだよ、咲馬は。一位を取ってぼくと付き合いたかった? 違うでしょ。咲馬は
消え入りそうな声で汐は言う。
怒りに燃えていた汐の
「好きじゃないって、ちゃんと言ってくれよ。頼むから。ぼくは、今まで何度もそうしてきたんだ。仲がよかった子も、そうでない子も、
「汐……」
震える汐の手に、俺はゆっくりと右手を重ねる。
白くて、細くて、冷たい手。骨ばった感触が哀しかった。
汐の腕に沿って視線を上げていく。細い首。小さな顔。固く結ばれた口。
それでも、やっぱり、俺は。
「……分かった」
これ以上、汐を苦しませたくない。
自分の気持ちに白黒つけよう。汐への好意を『よく分からない』で済ますのは、もうやめる。そもそも『よく分からない』時点で、答えはすでに出ていたのだ。それを俺は、自分の気持ちをこねくり回して、誰も傷つかずに済む方法を模索していた。
だが、そんなものはなかった。
「ごめん、汐」
謝ると、汐は痛みに耐えるように
胸が苦しい。汐は傷つくだろう。子供のように泣きじゃくるかもしれない。でも、ここで
「俺は、
汐は顔を伏せる。
痛みが、悲しみが、俺の胸元から痛いくらいに伝わってくる。
「でもな、汐」
汐は顔を伏せたままだが、俺は構わず続ける。
「これで俺たちの関係まで終わったわけじゃない。汐がどれだけ気まずい思いをしようが、俺は汐に関わり続ける。迷惑だって言われても、絶対にやめない。何がなんでもお前の事情に介入してやる。俺は、汐の
汐の口から
俺は目の前にある汐の頭を
俺は汐に聞こえないよう軽く息を吐き、視線を上げる。ドアにはめ込まれた窓から、四角く切り取られた真っ青な空が見えた。
汐の嗚咽が止まる。
「……ごめん、
「いいよ、別に。気にするな」
汐は顔を上げた。
人恋しそうに潤んだ
上気した
──俺は息を
一瞬。
直後、汐は俺の胸元をぐいと引き寄せて。
俺の
それは。
俺のファーストキスだった。
……え?
何?
今何が起きた?
汐はすぐに顔を離し、信じられないように目を見開いて、口を震わせる。
「ごめっ、
きゅっ、とゴムとリノリウムが擦れる音が、離れたところから聞こえた。
俺と汐は、音のしたほうに視線を向ける。
階段の踊り場に、
「下にいなかったから、捜しにきて……えと、今二人……き、キス、して……え?」
俺も混乱している。
たぶん
あり得ないほど混迷を極めた状況で。
俺はたしかに、何かが崩れていく音を聞いた。
このあとがきでは本編に言及していくので、本編を未読の読者様はご了承ください。
人間は何かから逃げているときが一番速く走れる、という言説を聞いたことがありますが、これには納得できます。というのも『ミモザの告白』は、とある構想に行き詰まっているとき、ふと思いついたアイデアを担当さんに送りつけたのが始まりでした。そこからトントン拍子に話が進み、こうして本になったのです。まぁ途中で何事もなかったといえば
本作は、「
もし男友達が女子制服を着て登校してきたら?
もし同性の友達に告白されたら?
もし好きな女の子の好きな人が、自分の
そんな数々の「もし」に対する自分なりの答えを、一つひとつ解いていくようにして物語を
また、もしかすると読んでいて気になった方がおられるかもしれませんが、作中では使用を避けている単語がいくつかあります。理由は多々ありますが、本作とその人物たちを特定の枠組みに当てはめたくなかったから、が最大の理由です。誰にでも身近に感じられて、自由に解釈できる物語になればいいな、と思って書きました。もっとも、それはこの作品にかぎった話でもありませんが。
『ミモザの告白』が、少しでも皆様に楽しい時間を提供できたなら幸いです。
以下、謝辞です。
担当編集の
前のあとがきは何を書いてたっけ、と思いながら本を開いてみたら「次もまた苦労しそうな予感がひしひしとしていますが~」とありました。そうならなくてよかったです。……ならなかったですよね? 今後ともご指導ご
くっか先生。
今作も素晴らしいイラスト、本当にありがとうございます。毎回イラストが届くたび、
そして最後に、読者の皆様。
皆様が認識してくださるおかげで、僕は
それでは、またお会いしましょう。
二〇二一年 六月某日 八目 迷
八目 迷
Mei Hachimoku
1994年生まれ。血液型はB型。紫外線で劣化した洗濯バサミが「パキッ」と折れる瞬間に夏を感じます。デビュー二周年。これからもがんばります。
小学館eBooks
ミモザの告白
2021年7月21日 電子書籍版発行
著 者 八目 迷
発行人 鳥光 裕
編集人 星野博規
編 集 濱田廣幸
発行所 株式会社 小学館
〒101‐8001
東京都千代田区一ツ橋2‐3‐1
s-ebook@shogakukan.co.jp
底 本 2021年7月26日 初版第1刷発行
ⒸMEI HACHIMOKU 2021 ISBN978-4-09-453018-6
※製品版の巻末についている『ガ報』の情報は底本発行日時点のものです。
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